24話 拒絶
生徒たちを治療室で診た翌朝、私は王都を発った。魔法演舞から二日後にフェオリスへ着くと、門の手前に馬車が連なり、客が荷物を抱えて兵士の前へ並んでいた。白衣を脱いで鞄へ押し込み、御者に促されて降りた。
順番が来ると、兵士は机の上の帳面から顔を上げた。
「名と、行き先は」
「エリーゼだ。ルミナ聖堂へ、弟の見舞いに」
「鞄を開けてくれ」
口を開いて机へ載せると、兵士の指が白衣の下へ入り、小瓶を包んだ布を引き出した。私が手を伸ばすより先に布を開き、薬液を日に透かしている。
「これは?」
「弟の治療に使う薬だ。栓は抜かないでくれ」
兵士は栓へかけていた指を離し、小瓶を持ったまま私の顔を見ていた。やがて帳面へ名前を書きつけ、小瓶を返した。
昼にはルミナ聖堂へ入り、弟の寝台の前に立っていた。脇の机へ鞄を置き、薬の小瓶を取り出したところで、修道女が私と寝台の間へ入った。
「今日は、話を聞くだけです。グレインさんが嫌だと言ったら、帰ってください」
入口には、大きな棒を背負った男も立っていた。私は小瓶を机へ置き、重ねた枕へ背を預けているグレインを見た。頬が前よりも落ち窪み、首まで伸びた亀裂から、青白い光が煙のように薄く立ち上っている。布団の上に出した手にも割れ目が増え、握った指の間には血が固まっていた。
「……それで、治せるの」
グレインの目が、小瓶から私へ戻ってきた。
「夜も眠れないんだ。寝ても、痛くて起きる。これを使えば、痛いのも……」
「まずは、傷が増えるのを止める。お前の標本では、魔力を残して攻撃を止められた。今の血でも、オペルクラが隣の配列まで広がらないか確かめる。腕を出せ」
グレインは肘を持ち上げた。修道女がその下へ手を差し入れると、彼は袖をつかんで動きを止めた。細い指が布を離さず、伸ばしかけた腕を女の方へ引き寄せている。
「その前に、シビラさんに謝ってよ」
修道女の手が、肘を支えたまま止まった。
「薬で眠らせたんだってね。僕のところへ来るために」
「ああ。通してくれなかったからな」
「だから、倒したのかよ」
「眠り草を使っただけだ。もう薬も抜けている」
グレインは女の袖から指を離した。私へ差し出すはずだった腕を胸へ抱え、小瓶を見つめていたが、今度は手を伸ばさなかった。
「その薬も、誰かに使って作ったのか。シビラさんにしたみたいに、嫌がってても押さえつけて」
「生徒には使ったよ。腕の傷が広がらなくなり、意識も戻った」
「意識って……その子は、使ってくれって頼める状態だったの」
「倒れていたからな。だが、目は覚ました。生きた腕でも、攻撃を止められたんだ」
布団を押す手に力が入り、グレインの身体が枕から離れた。肘の皮膚が引き攣れて顔が歪んだが、そのまま私を睨み上げてくる。
「そうやって作ったものを、僕に使うのかよ」
「そのために持ってきた。お前の腕も、このままでは――」
「誰かを傷つけてまで、治してほしいなんて言ってない!」
襟の下から顎へ亀裂が伸び、縁に血が膨らんだ。修道女が布を当てようとしても、グレインは首を振り、胸へ抱えた腕をさらに引き込んだ。
「帰って。そんなもの、僕には使わないでくれ」
胸元から漏れていた光が、急に濃くなった。衣服の下が青白く膨らみ、グレインもそこを押さえたが、指の隙間から溢れた光は消えなかった。
「シビラさん、離れ――」
耳の奥を押されるような圧迫に、私は一歩退いた。膨らんだ魔力が胸元の布を弾き、仕切りの幕を引き裂いて、隣の寝台まで押し寄せた。身を起こしていた患者が横へ投げ出され、寝台の縁へ肩を打ちつけた。
「フェルメノーメさん、皆さんを外へ!」
修道女はグレインの肩へ手を伸ばしたが、そこでも光が膨らみ、触れる前に押し戻された。グレインは彼女の手を追いかけ、自分の腕からまた魔力が噴き出すと、指を握り込んだ。
「違う、僕……止めようと……」
手を胸へ押し当てても漏出は収まらず、爪が亀裂の縁を掻き崩した。入口の男が倒れた患者を抱え、ほかの寝台の間を抜けていく。その足元まで敷布が吹き飛ばされ、石の床を擦った。
採った時とは、壊れ方が違う。
私は首から胸へ広がる裂け目を見ながら、小瓶を取った。腕だけに塗っても、ここまでの崩れは止められない。
血に入れて回すか。
今の細胞でオペルクラがどこまで広がるかも確かめていないが、このまま待てば薬液を試す身体の方が保たなくなる。
「何をするんですか!」
注射器へ薬を吸い上げると、修道女が私の前へ戻ってきた。杖を握る手の甲は赤く腫れ、その向こうでは、グレインが喉を押さえて息を吸おうとしていた。
「使わないでと、言ったでしょう!」
「そこを空けろ」
頭の内側へ雷を送り込むと、振り上がりかけた杖の動きが緩んだ。私はその脇を抜け、グレインの後頭部をつかんだ。逃れようと引かれた頭を押し留め、首筋へ針を刺すと、薬液を押し込んだ皮膚へ指を当てて雷を流した。
指の下で脈が跳ね、緑の点が首筋へ散った。グレインの肩が引きつり、押さえた頭が手の中で震えたが、私は針を抜くまで離さなかった。
寝台から退いて加速を解くと、引き延ばされていた声が、耳元で悲鳴に戻った。
グレインは背を反らせ、布団を掴んでいた指を開いた。やがて喉から漏れる声が細くなり、枕へ頭が沈むと、修道女が寝台の脇へ膝をついた。
「グレインさん……私が分かりますか」
唇が僅かに動いた。女はその口元へ耳を近づけ、何か聞き取ろうとしていたが、グレインの顎が下がるにつれ、ゆっくりと顔を離した。
口が閉じない。
下顎が前へせり出し、耳の下で骨の軋む音がした。頬の皮膚が引かれ、噛み合わなくなった歯の間から唾液が糸を引いた。痩せていた前腕も内側から膨らみ、寝台の縁をつかんだ指が、爪ごと木へ食い込んでいく。
器官を保つ働きまで止めたのか。だが、今回はスライムの細胞を入れていない。何の情報で、骨格まで作り替え始めた?
私は鞄へ手を戻しかけた。変わり終える前の細胞を採らなければ、どこから違いが生じたか追えなくなる。
布団が床へ落ちた。グレインが足を下ろし、寝台から腰を浮かせていたので、肩を押さえて戻そうとする。
その顔が、私の右腕へ跳ね上がった。
「っ……!」
歯が袖を突き破り、前腕の肉へ食い込んだ。引くほど皮膚が裂け、反対の手から雷を流すと、ようやく顎が緩んだ。腕を抜いた途端、血が袖口から流れ落ち、グレインの唇を濡らした。
「グレインさん!」
修道女が近づこうとしたので、私は血の流れる腕をその前へ出した。
「触るな!」
グレインは私を見ず、口の端を舐めていた。歯の間へ舌を差し込み、血を拭うように何度も動かしている。袖の切れ端が床へ吐き出されると、修道女が呼びかけたが、彼は返事をせず、また私の腕を見つめた。
まずは意識を落とす。採取を急いで、また噛まれては手が使えなくなる。
「そこから離れろ。こいつには、もう触るな」
修道女が寝台の足元へ退いた。私は頭へ雷を送り、立ち上がりかけたグレインの脇を抜けた。首の後ろへ左の掌を当て、雷を通した瞬間、皮膚の下で乾いた音が弾けた。
青白い枝が、私の手首を這い上がった。
掌から流していた雷を切っても、次の火花がグレインの首筋から伸びてきた。指が縮み、押し当てた爪が皮膚へ食い込む。胸から漏れていた魔力とは違う。腕の筋肉を引き攣らせ、肩まで痺れさせているのは、雷だ。
こいつの標本に、こんな反応はなかった。
私の血を舐め取っていた舌が浮かんだ。あの血から、雷を扱う情報まで取り込んだのか。シャマイラと同じ働きが、こいつの中に――。
首筋から手を引こうとしたところで、グレインの指が私の手首をつかんだ。骨が軋むほど締められ、身体を引いても腕だけが離れない。右手でその指を剥がそうとしたが、裂けた前腕に力を込めるたび、血が指の間へ流れ込んだ。
脚を踏み替えると、膝の上で筋肉が震えた。さらに速く動かそうとしても、足は思った位置へ戻らず、痺れの走る背中が勝手に反った。
頭へ送る雷を切った。
膝が折れ、つかまれた腕だけを残して身体が落ちた。肩の奥で鈍い音がし、床へつけようとした右手も間に合わず、頬を石へ打ちつけた。
「グレインさん、離して!」
修道女の足が近づいたが、グレインの身体から床へ雷が散ると、靴が止まった。杖が石を叩き、私のそばへ倒れてきた。
腕を引け。手首を回せば、まだ抜ける。
肩の痛みも、頬へ触れる床の冷たさも分かる。それなのに、力を入れたつもりの指は開いたままで、爪の先さえ石から離れなかった。
左腕を引き上げられ、私は仰向けに転がされた。グレインが膝をつき、持ち上げた私の手首へ口を寄せていた。歯が沈むと下顎がさらに垂れ、頬の裂け目が耳の下まで伸びた。
赤い喉の内側が、見えている。
くわえた手を離さないまま、口が肘まで覆った。腕を引かれて上体が床から浮き、グレインの指が手首を離れる。その手が今度は私の後頭部へ回り、肩のすぐ上へ開いた口に、頭を押しつけてきた。
「離せ……ッ!」
上の歯がこめかみを擦り、下の歯が肩へ食い込んだ。首を引こうとしても動かず、頬へ押し当てられた舌が、口と鼻を塞いだ。
後頭部を押さえる指に力がこもった。肩ごと喉の奥へ押し込まれ、生温かい肉が目を覆うと、修道女の叫びが、ひどく遠くに聞こえた。




