エピローグ 伏流
翌朝、ミゼルディアの王城で、エレアの助手は国王の前で研究報告書を広げていた。処置の後に細胞が崩れた図を並べ、投与した薬液について説明している間に、国王の眉間には深い皺が刻まれていった。
「これだけの費用をかけて、失敗したというのか」
「はい。兵器としてお渡しできる成果は、ございません」
「人間に使う話も、進まなかったのだな」
助手は報告書の最後を開き、身体を保てなかった例を示した。国王が図へ顔を近づける間に、机の脇へ置いた鞄の口を閉じた。帰還したグレインの記録は、その底に入れたままだった。
「安定して使わせるには、至りませんでした」
国王は図の余白へ何かを書き込み、ペンを置いた。助手が紙を揃えようとすると、その手元へ顔を向けた。
「エレア本人は、今どうしている」
「国立ミルファーゼ魔法学校で、引き続き教員として勤務しております」
「……学校では結果を出しているそうだな。そちらの務めは果たさせろ。この報告は預かる」
「承知いたしました」
机に報告書を残して頭を下げると、国王はもう次の書類を手に取っていた。
王城を辞した助手は、研究所へ戻らず、メルカトールへ向かう馬車に乗った。膝へ置いた鞄を開き、布包みの上から小瓶の位置を確かめてから、留め金を掛け直した。
* * *
メルカトールから渡った船がブエスビタス島の桟橋へ着くと、助手は鞄を抱えて岸へ上がった。浅瀬に組まれた足場では、男たちが綱を引き、梁を持ち上げていた。掛け声に合わせて傾きが直され、柱の間へ収まると、木槌の音が続き始めた。
坂を上り、メリオシーの部屋へ通される頃には、上着に潮の匂いが染みついていた。窓際にいた少女が振り返り、肩から滑りかけた羽衣を腕へ掛け直した。淡い金髪に留められた紫の花は、以前に会った時と同じ場所にあった。
「お帰りなさい。長い潮路でしたね」
「ただいま戻りました。ようやく、碇を下ろせます」
勧められた椅子へ腰を下ろすと、メリオシーも机の向かいへ座った。助手が鞄を膝へ載せたところで、少女の声が少し低くなった。
「王への報告は、波風なく済みましたか」
「ええ。研究は失敗したとお伝えしました。エレア様は、これまで通り魔法学校に勤めておられると。王国には、そこまでしか汲ませておりません」
「あの方が、失敗を認められたのですか」
助手は鞄から、国王へ渡さなかった記録を取り出した。
「エレア様は、弟の治療で舵を誤られました。弟に食べられ、亡くなられたのです」
メリオシーの唇がわずかに開いた。差し出された記録を受け取らず、助手の顔を見つめている。
「……では、学校にいる方は?」
「グレイン様です。姿も声も、エレア様と変わりません。私の弟のことまで覚えておいででした」
メリオシーは差し出された記録を受け取った。細かな配列の図をめくり、帰還後の経過を記した紙で手を止めた。
「ご自分で血を採って、ここまでお調べになったのですか」
「はい。以前のお二人の図と見比べておられました。私が研究室を出る時には、これから生徒さんたちの実験の準備をするとおっしゃっていました」
メリオシーは記録を机へ置いた。助手が持ち帰った紙をその上へ重ねようとすると、彼女は手を添え、帰還後の記録だけを自分のそばへ残した。
「弟君が姿を継いだことは、王には?」
「伏せております。学校でいつもの御姿を見れば、王もその底まで浚おうとはなさらないでしょう」
助手は膝の鞄から布包みを取り出した。折り目を開くと、小瓶が布の窪みへ転がり、窓の光を受けた液面が揺れた。
「それと、面白いものを手に入れました。これなら、こちらにも水を引けます」
メリオシーは布の上の小瓶を見ていたが、助手が次の記録を開くと、そちらへ顔を寄せた。
「魔法を持たない者にも、魔力を定着させる薬液です。水源のないところへも、流れを通せます」
メリオシーの指が、記録の上で止まった。
「魔法適性のない者にも、ということですか」
「はい。エレア様が隣国へ向かわれた後、適性のなかった者を一人選び、瀬踏みをしております。処置の後、掌から炎を出せるようになりました」
メリオシーは投与前の欄に指を置いたまま、紙から顔を上げた。
「次に炎を出した時も、あなたが魔力を与えたのですか」
「いいえ。薬液を使ったのは初めの一度だけです。出航の朝には、私が魔力を与えなくても、その人の掌に炎が出ました」
助手は記録をめくり、翌朝の欄を示した。隣の記録には、掌の痛みを訴えた時刻が書かれ、その下に予定されていた試行は線で消されていた。
「痛みが出たのですか」
「はい。その日はそこで止めました。翌朝には痛みが引いたと言うので、もう一度炎を出してもらいました」
「その時は?」
「痛みはないと。ただ、まだ二日分です。戻りましたら、引き続き確かめます」
メリオシーは両手で小瓶を受け取った。硝子を包んだ指を少し開き、布の上にあった時よりも近くで、中の液を見つめている。
「生まれつき持っていなくても……」
呟きながら記録へ顔を戻し、投与前の欄をもう一度確かめた。小瓶を置いたのは、助手との間ではなく、自分の腕の内側だった。
「誰に水を分けるかも、こちらで決められるのですね」
助手は鞄に残していた調製の記録を取り出した。机へ広げると、メリオシーは帰還後の記録を脇へ寄せ、薬液に関する紙を一緒に揃えた。
「この薬液も、調製の記録も、王国へは流しておりません。こちらへ引くために、手元へ留めておきました」
「よく、ここまで汲み上げてくださいました」
メリオシーの声には、先ほどエレアの死を聞いた時の硬さがなかった。記録を受け取る手へ助手も指を添え、束が相手の手に収まるまで支えていた。
「流れを継ぐ者を、我らの手で増やせるのです。これがあれば、われら青濤会は永久不滅です」
メリオシーは小瓶を記録とともに机の引き出しへ収め、鍵を掛けた。
「グレイン様については今後どうしましょうか。ヴェール聖堂を崩壊させた際に学校の名前が隣国に知れ渡ってしまいました。いずれ荒波が来る前に堰き止めなければと」
「それでしたら心配ありません。分水嶺は越えましたよ」
「いったいどういう……」
「波は動きました。アラインカプスの王都は既に崩壊しています」
窓の外では、浅瀬へ新しい杭を打つ音が続いていた。
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