22話 白線の内側
魔法演舞まで三日を残した午後、私は学校の治療室で、アトスの右腕から布を外していた。傷の縁に張りついたところを剥がすたびに眉が寄ったが、本人は腕よりも、寝台の足元に空いた場所を気にしている。
「外へ呼ぶだけだ。腕へ引き込むな」
「……分かってる」
差し出された左手の先で、赤い光が集まり始めた。アトスは唇を動かしながら、その光を見つめていたが、人の形を結ぶより先に、右腕の皮膚へ赤い筋が浮いた。肘の内側が引きつると、開いていた口から短い息が漏れた。
「止めろ」
左手が引かれ、足元の光が散った。腕の筋も薄れていったが、アトスは右肩を持ち上げたまま、こちらを睨んでいる。
「外へ出そうとしたんだぞ。腕には、入れてねえ」
「ああ。だが、呼ぼうとするだけで、中に残った力も動いた。今は召喚も使わせられない」
アトスは光の消えた場所へ顔を戻した。左手をもう一度伸ばしかけたが、右腕の赤い筋がまだ消え切っていないのを見ると、膝へ下ろした。
「……演舞には、出られねえのか」
「あの三人で出す。お前の腕は、まだ調べることがある」
膝の上で開いていた指が曲がり、寝台の布をつかんだ。ピュラが傍らへ腰を下ろしても、アトスは顔を向けず、足元を見続けている。
外へ光を集めた時と、それを散らした時で、腕の反応も変わった。召喚との繋がりは残っているらしい。私は傷の脇へ指を当て、赤い筋の通った位置を図へ書き足した。
* * *
翌朝、訓練場でラズリの炎へ弱い雷を当てると、透明な筋を抜けた先で、木の杭から煙が上がった。炎は途切れていない。ラズリはそれを自分の前へ寄せかけ、杭の焦げ跡を見ると腕を下ろした。
「……防げないんですか」
「今の太さでは通った。変えてみろ」
太くしても、先端ではなく根元へ当てても、背後の杭に焦げ跡が増えた。私は反応を書き留め、ラズリには、雷そのものよりも放つ前の手の動きを見させた。
残る練習では、三人の位置も変えた。ピュラが前へ出ればプローテの炎を遮り、下がろうとすればラズリの伸ばした炎が足元を横切る。演舞の前日には、ピュラが自分の戻る場所を決め、二人へ空けておくよう頼むようになっていた。
* * *
演舞の朝、訓練場の的は端へ寄せられ、踏み固められた土に大きな白線が引かれていた。周囲へ集まった生徒たちの間から、こちらの人数を数える声が聞こえる。
ラズリは白線の手前で足を止め、向こう側にいる雷クラスの三人を見ていた。掌に作った透明な炎は、まだ指の間で揺れるほどしか膨らんでいない。
「最初から、強い方を使う?」
隣のプローテへ尋ねる声は低かった。彼も相手を見ていたが、その問いには首を横に振った。
「外したら、その分は戻らないから。先に、動くところを見たい」
「……分かった。じゃあ、私が近づく」
「わたしも前へ出るね。でも、戻る時は言うから」
ピュラが二人の間を指すと、ラズリはそちらへ伸びかけていた炎を引き戻した。昨日までと同じように位置を確かめているうちに、伏せていた掌が少しずつ相手へ向いた。
「アトス君は、出さないのですね」
雷クラスの教員が私の前へ来ていた。生徒たちの声が届く距離だったが、男は声を落とそうともしなかった。
「ああ。まだ魔法も使えないからな」
「そうしたのも、あなたでしょう」
私が頷くと、男の目が細くなった。手帳を開いた私から、白線の前にいる三人へ顔を向ける。
「無理に続ける必要はありません。負傷したら、すぐに申し出なさい」
ピュラが小さく頷いた。ラズリは掌の炎を一度消したが、指を閉じる前にプローテと顔を見合わせ、もう一度、手を前へ差し出した。
学院長が白線の脇へ進むと、周囲から聞こえていた話し声も小さくなった。
「双方、三名ずつで行います。降参した者、白線の外へ出た者、私が戦闘を続けられないと判断した者は退場です。三名とも退場した側の負けとします」
ピュラが左寄りの前へ出て、ラズリは少し離れた右側へ立った。プローテは二人の後ろに残り、右の掌を低く構えている。
向こうでは、短髪の少年がラズリの手元を見ていた。その後ろで、背の高い少女が手を差し出すと、青白い光が集まり、四つ足の獣の形を結んだ。大柄な少年だけは二人から離れ、プローテのいる側へ回ろうとしている。
「始めてください」
ピュラの赤髪の外側で、背後の景色が揺らいだ。揺らぎが脚までつながるのを待って前へ進むと、短髪の少年が掌を上げた。
指の間に青白い光が弾けた途端、ラズリの足が止まった。自分の前へ炎を寄せかけた腕を戻し、斜め後ろへ跳び退く。その爪先があったところを雷が打ち、跳ねた土が膝へ当たった。
ラズリは顔を背けたが、掌は閉じなかった。伸ばした炎が地面へ垂れ、草を燻らせている。
「もう一回来る!」
プローテの声に、ラズリが肩を引いた。短髪の少年は既に掌を向け直していたが、そこへ細い炎が伸び、靴のすぐ前を横切った。少年が足を引くと、放たれた雷はラズリから外れ、背後の土を抉った。
ラズリはその隙に前へ踏み込んだ。腕を払うと、垂れていた炎が持ち上がり、少年の胴へ向かって弧を描いたが、身体を引かれて届かなかった。
それでも、今度は腕を下ろさなかった。
少年が次の雷を集めようとした時、手首を返した炎の先が戻ってきた。彼は息を呑んで腕を引き、掌の光を散らした。袖には触れていないが、先ほどより大きく距離が開いた。
その間に、大柄な少年がプローテの左側へ近づいていた。プローテは掌の火を膨らませかけたものの、少年が低く身をかがめると、狙いをつけ直すために足を引いた。
ピュラが二人の間へ踏み込んだ。
大柄な少年は構わず拳を突き出したが、ピュラの腕へ届く前に袖口から煙が上がった。顔を歪め、自分から腕を引き戻すと、赤くなった指をもう一方の手で包んだ。
「触って、ねえぞ……」
ピュラも拳の迫ったところを見ていた。胸元へ寄せていた両腕をすぐには下ろせずにいたが、少年が一歩退くと、それに合わせて足を進めた。
大柄な少年は、今度は近づいてこなかった。ピュラの周囲を見ながら横へ動き、彼女もそちらへ向き直る。その脇から、プローテが再びラズリの相手へ掌を向けた。
短髪の少年は、戻ってくる炎を避けようと後ろへ退いていた。足元を追う細い炎にも進路を狭められ、背後の白線を振り返った。
ラズリの最初の一振りは、また身体の前を通り過ぎた。
少年はそれを見送り、白線から離れようと足を踏み出したが、ラズリは彼の胸を追って腕を振り直さなかった。手首を内側へ返すと、低く曲がった先端が、踏み込もうとした爪先の前へ戻ってきた。
草から煙が上がり、少年の足が引かれた。内側へ戻る場所を探す間にも透明な筋が迫り、とうとう白線を越えて跳び退いた。
「そこまで。その場で魔法を止めなさい」
学院長の声に、少年が足元を見下ろした。片足だけを線の内側へ戻しかけたが、学院長に手で制されると、掌に残っていた光を消した。
ラズリも炎を消した。
白線の向こうへ出た少年と、自分の掌を交互に見ていたが、やがてプローテへ顔を向けた。唇がわずかに緩み、何か言いかけたところで、ピュラの声が飛んだ。
「わたし、戻る!」
肩の周囲で揺らぎが薄くなり、ピュラが後ろへ下がり始めていた。ラズリはそちらへ伸ばしかけた手を引き、二人で決めていた間を空けた。プローテも掌を外側へ向けたまま、ピュラが通れるだけの幅を残している。
私は、大柄な少年が拳を引いた位置を書き留めた。服へ触れる前に熱が届き、指にも変化が出た。あの赤みがどこまで及んでいるか、あとで確かめたい。
だが、少年はもうピュラへ手を伸ばそうとはしなかった。距離を保って立つその背後から、青白い獣が進み出た。
獣の口が開くのを見て、ピュラが足を速めた。彼女の退いた場所を雷が貫き、つい先ほどまで立っていた土を黒く焼いた。
プローテの隣まで戻ったピュラは魔法を解き、肩で息をしながら振り返った。頬に張りついた赤髪の間から、地面の焦げ跡を見つめている。




