20話 残るもの
魔法演舞まで四日となった朝、私は地下研究室で、アトスの標本を顕微鏡の下へ戻した。昨夜から試薬の濃さを変えていたが、広く定着したものでは、攻撃が止まっても魔力の反応まで失われていた。取り込む前の図と比べると、もともとあった炎の反応までオペルクラの下に隠れている。
薄めた試薬を、取り込み後の血へ加えて雷を流した。今度は黒い縁が短くなったが、外から入り込んだ魔力の反応は、その先にも残っていた。小さな細胞がそこへ集まり、膜へ食いついた。これでは、攻撃される箇所を覆いきれていない。
その二つの間へ濃さを戻して別の標本を作ると、オペルクラは外から増えた反応を隠し、もともとの炎に対応する箇所の手前で止まった。周囲の小さな細胞は近づいても食いつかずに離れ、処置していない細胞へ群がっていった。隣の膜が崩れる間も、オペルクラのできた細胞の内側では魔力が流れ続けていた。
「ふふっ、残ったな」
同じ濃さで別の標本も作り、攻撃が止まることと、炎の反応が消えないことを確かめた。濃すぎたものと薄すぎたものの図を脇へ寄せ、使った試薬を小瓶へ移した。
グレインの図を重ねると、攻撃が始まる位置は違っていた。弟の標本でも、今の試薬がどこまで覆うか調べる必要がある。先に、生徒の腕で攻撃を止められるか確かめてみるか。
「生徒さんに使われるのですか」
助手が机に散った図を寄せた。広く覆われ、魔力の反応まで消えた標本の記録が、その手に残っている。
「ああ。腕でも同じように働くか、確かめてくる」
「お戻りになったら、私にも作り方を教えてください」
「お前が作るのか?」
「また必要になった時に、すぐ用意できるように。エレア様がおられる時ばかりとは限りませんから」
「使った量は記録してある。帰ったら見せよう」
図と小瓶を鞄へ収めると、助手は手元に残った記録を机へ置いた。
「その子が目を覚ましたら、先に知らせてください」
「ああ」
鞄を提げ、私は研究室を出た。
* * *
学校の治療室では、ピュラがアトスの左手を握っていた。長い赤髪が頬へかかり、私を見上げた目は赤く充血している。私は右腕側へ回り、鞄から試薬の小瓶を取り出した。
「先生。その薬で、目を覚ますんですか」
「先に、傷が広がるのを止める」
右腕の布を外すと、固まりかけた血に引かれて傷の縁が浮いた。肩口には細い裂け目が増え、昨夜描いた傷の形から、赤い筋が外へ伸びている。ピュラもそこを覗き込み、握っていた手を胸元へ引き寄せた。
「さっきも、布を替えたんです。また、こんなに……」
治療台の足元にいたプローテが、肘の下へ畳んだ布を差し入れた。私は傷の周りへ試薬を塗ろうとしたが、ピュラが小瓶を見つめたまま声を張った。
「待ってください。それ、まだ……アトスくんには使っていないんですよね」
「採った細胞では、魔力への攻撃が止まった。このままなら、腕の組織が壊れ続ける」
「でも、昨日も、腕だけだって……」
言いかけたピュラの目の前で、肩口の裂け目に血が膨らんだ。彼女が布で拭っても、拭いたところからまた滲み出し、押さえた指先まで赤く濡れた。
「……どうすれば、止まるんですか」
「試薬を内側へ届かせる。そこを空けろ」
ピュラは布を腕から離したが、手元へ引き戻さず、流れる血を受けるように傷の下へ広げた。
「血が増えたら、言いますから。先生、ちゃんと見てください」
私は皮膚へ指を当て、肘の下の布を示した。
「その布ごと支えておけ。腕が跳ねる」
プローテが両手を添えたのを確かめ、微弱な雷を流した。アトスの指が反り、腕の筋肉が硬くなった途端、傷から血が押し出された。
「血が、また……!」
ピュラの布に赤い染みが広がった。アトスの眉間には皺が刻まれたが、瞼は閉じたままだった。肘を支えるプローテの手まで震えている。
私は雷を絞り、皮膚の下へ浮かぶ緑の点を追った。傷の間に途切れながらも、点は肩から肘へ散っていた。指を離すと腕の強張りが解け、プローテが支えていた肘も、布の上へ沈んだ。
流れ出た血をガラス板へ採り、治療室の顕微鏡で確かめた。魔力の残る細胞の一部には、標本と近い範囲にオペルクラが形成されている。そこへ集まった小さな細胞は、膜を崩さずに離れていった。
図へ光の縁を写し終えて治療台へ戻ると、ラズリが濡らした布で、傷の周りの血を拭っていた。耳に掛けた黒髪に赤い一筋が覗き、その下の紫の瞳は、私が差し出した手を追っている。布を受け取り、肘の内側まで確かめた。
先ほど開いた裂け目には血が溜まっていたが、その先の皮膚は割れていなかった。肩口の赤い筋も同じところで止まっている。布を当て直して待っても、新しい傷は現れなかった。
「よし。腕でも反応が変わった」
アトスの頬に触れていたピュラが、眉を寄せたまま私を見上げた。
「まだ、起きていません」
「呼吸は深くなっている。瞼を開けてみるぞ」
指で瞼を持ち上げると、窓からの光に瞳孔が縮んだ。だが、手を離せば目は閉じ、ピュラが名前を呼んでも、顔を向けることはなかった。
私は肘の傷の位置を書き留めた。広がりは止まっている。採った血でも、魔力の反応は失われていない。
ピュラはアトスの胸が上下するたびに顔を近づけ、息の音を聞いていた。握った手を少し緩め、自分から握り返してくるのを待つように、指を開いている。
ラズリが布を替える間も、その指は動かなかった。
「アトスくん。わたし、ここにいるよ」
ピュラの声が掠れた。私は手帳を置き、首筋の脈を確かめた。指へ規則正しく返ってくる拍動を数えていると、反対側でピュラが息を呑んだ。
アトスの左手が、開かれた指を探るように曲がっていた。細く開いた目が天井をさまよい、頬へ触れた赤髪を追って止まった。
「……ピュラ?」
ピュラはその手を包み、声を出す前に何度も息を吸った。
「うん。分かる? わたしのこと」
「……分かる。右、どうなって……」
掠れた声が咳に変わり、身体を起こしかけたアトスの顔が引きつった。右肩から肘へ力がかかると、押さえていた布に血が滲んだ。
「動くな。傷は塞がっていない」
左肩を治療台へ押し戻すと、アトスは短く息を吐き、右腕を見下ろした。肘を支えるプローテの手を見つめていたが、傷口の布が赤く濡れるにつれ、唇を固く結んだ。
「俺……。あの後、どうなった」
「倒れたんだよ。呼んでも、ずっと……」
ピュラの声が詰まり、アトスは握られた左手へ顔を向けた。彼女の指の間から、自分の指を少しだけ動かしている。
ラズリが水の器を持ってきた。口元へ添えられた縁を唇で探り、少し飲んだだけで、アトスは枕へ頭を戻した。濡れた唇を舐め、私へ目を向けた時には、その眉が寄っていた。
「まだ、中にいるのか」
「ああ。採った血には、精霊の魔力が残っている」
「出したんじゃ、ねえのかよ」
「傷を広げる反応を止めたんだ。取り込んだ力が残れば、お前自身の魔法として使えるかもしれない」
アトスは右腕を身体から離そうとしたが、肘が布を擦っただけで顔を歪めた。指先をシーツへ押しつけ、そのまま肩で息をしている。
「魔法は使うな。腕の中がどう変わったか、まだ調べきっていない」
「……あの時も、動かそうとして、途中で……俺の方が、ついていけなくなった。止めようとしたんだぞ」
「どこからだ。的を殴る前か、後か」
「殴った、後……。いや、腕を戻した時には、もう……」
言葉を探す間に呼吸が速くなり、アトスは開いた指をシーツへ押しつけた。肘の下でプローテが布を直すと、びくりと肩を揺らし、その手を見つめた。
「先生、今は休ませてあげてください」
ピュラは私を睨んだが、アトスが左手で袖をつかむと、すぐにその顔を覗き込んだ。
「……後で、話す」
アトスはピュラの袖をつかんだまま、私へ顔を向けた。
「ちゃんと、覚えてる。自分の手で動かせたところも。その後、止まらなくなったのも……。でも、今は腕を動かしたくねえ」
「ああ。そうしろ。痛むところが変わったら教えろ」
ピュラが椅子を引き寄せ、つかまれた袖をアトスの手元へ下ろした。右腕に布を当て直しても、今度は肩口に新しい裂け目はできなかった。
私は採った血を顕微鏡の下へ戻した。腕に使っても、魔力の流れは残り、その周囲への攻撃は止まっている。残してある弟の標本にも今の試薬を加え、攻撃が止まる範囲から確かめよう。
治療台の方で、布を擦る音がした。
「……まだ、そこにいてくれ」
振り返ると、アトスは目を閉じていた。ピュラが袖を握る手に、自分の手を重ねていた。




