13話 余波
男の掌から伸びた水が、空中で止まったように見えた。格子から飛び散った雫も、開きかけた修道女の唇も、今の私にはひどく緩慢だった。
脳へ送り込んだ雷が神経を流れる信号を速め、男の指が曲がるより早く、私の手はその手首へ届いた。雷を流し込むと掌の水が崩れ始めたので、その腕を押し退け、杖を振ろうとする修道女の手首も格子へ叩きつけた。そこへ雷を送り込むと、杖を握っていた指が開き、柄が掌から滑り始めた。
二人が倒れきる前に実験場へ駆け込むと、尋問中に見た腕の図が机に広げられていた。手帳と一緒に鞄へ掻き込み、背後の棚からも紙の束を引き抜いたところで、机に残った書き付けに学校の名が見えた。
私について調べた記録か。記録も設備も、まとめて潰してしまおう。
女を抱え直して柱へ雷を叩き込むと、天井を支えていた石が半ばから砕けた。飛び散る破片の下を抜け、壁を蹴って階段の罠を跳び越えながら、階段下の壁にも雷を放った。着地の衝撃が脇腹へ響いたが、地下で石が崩れる音を聞きながら、大広間で祈る修道士の列をすり抜けた。
扉を押し開け、門の前の荷車をかわすと、石畳を蹴るたびに街並みが後ろへ流れた。抱えた女が何か叫んでいるようだが、引き延ばされた声は言葉にならず、服をつかむ指の力だけが伝わってくる。屋根の列が途切れ、足元が土に変わったところで、ようやく速度を落とした。
街道脇へ放出女を下ろして雷を止めた途端、膝が折れ両手を着いた。倒れかかった私を女が受け止め、支えきれずに地面へ膝をついた。
「先生!? せ、先生……!」
放出女の膝へ頭を預けたまま首を起こそうとしたが、少しも持ち上がらなかった。座り直すことも、土の上へ投げ出された指を一本曲げることもできない。
五秒ほどで悲鳴をあげるか。
神経へ送る命令を速めても、筋肉の限界は変わらないらしい。
「どうしたんですか……。さっきまで、あんなに……」
「動かしすぎただけだ。それより鞄を下ろしてくれ。下敷きになっている」
女が慌てて肩紐を外し、私の頭を支え直すと、その向こうで白い尖塔が傾き始めていた。根元から灰色の埃が噴き上がり、色鮮やかな窓ガラスが陽光の中へ散っていく。尖塔が屋根の向こうへ沈むと、遅れて地響きが届き、私を抱える腕に力がこもった。
「あ、あそこ……。私たち、さっきまで……」
「……脇腹に、触るな」
「す、すみません」
女の腕が緩んだ。
「馬車を呼んでくれ。ミゼルディアへ帰る」
「でも、私一人じゃ、先生を運べません……」
「御者もいるだろう。手伝ってもらえばいい」
近づいてくる車輪の音に女が顔を上げ、脱いだ上着を私の頭の下へ押し込んでから街道へ出た。
「待ってください! お願いします、人が動けなくて……!」
すぐそばで蹄の音が止まると、こちらを覗き込んだ御者が放出女と一緒に身体を抱え上げた。揺すられるたびに肩と脇腹が痛み、女が礼を言い続ける声を聞きながら馬車へ運ばれた。
馬車の座席へ横たえられると、女は向かいで鞄を膝に抱え、窓の外から声がするたびに肩をすくめていた。
鞄から突き出た紙の端を見ていると、椀へまとわりついて燃え続けた炎が思い浮かんだ。腕の図には処置の前後を比べた書き込みもあったし、帰るまで待つのも惜しいな。
「腕の図を出してくれ。こちらへ向けて見せろ」
女が束から抜き取った紙を広げると、薬らしい名前と、その脇に小さな数字が並んでいた。読もうとした途端に馬車が揺れ、文字が顔の前から外れてしまう。もう少し近づけさせたが、紙を持つ女の腕まで揺れていて、肝心の行を追えなかった。
「先生、私……うまく持てなくて……」
紙の縁をつまむ指が震えていた。あれだけ腕をいじられた後で、馬車の揺れに逆らって構えていろというのも難しいか。
「もういい。戻しておけ。動くようになってから読む」
紙が鞄へ収まるのを見届けて目を閉じると、車輪が石を踏むたびに、座席へ投げ出した身体が跳ねた。
ミゼルディアへ戻る頃には、どうにか上体を起こせるようになっていた。手を握るだけで筋肉が引きつったが、王都で馬車を降りる時には自分の脚で立てた。女はまだ鞄を抱えたまま、私についてこようとしていた。
「それを返してくれ。お前は明日、学校へ来い」
「……戻っても、いいんですか」
「その腕と炎を調べる。それまで、無闇に魔法を使うなよ」
差し出された鞄を受け取って歩き始めると、背後から小さく礼を言う声が届いた。振り返れば、女は袖口を握ったまま、何度も頭を下げていた。
私は放出女と別れ、人通りの多い道を抜けて地下研究所へ戻った。扉を開けると、机に向かっていた助手がこちらを見て、椅子を鳴らしながら立ち上がった。
「エレア様!? その血、どうしたんですか!」
「擬態魔法の施設で捕まってね。ヴェール大聖堂を壊して出てきた」
駆け寄ってきた助手へ鞄を渡し、その横を抜けてベッドへ向かうと、背後から声が追いかけてきた。
「そんなことをしたら、いったいどう説明するんですか。あまり荒波を立てないでくださいよ……。相手には、お名前や学校まで知られたのですか」
「ああ。学校の名は私が答えた。名前も、生徒が口にしていたな」
「今夜のうちに王へ報告を出します。まず、何があったのか順に話してください」
私はベッドへ腰を下ろし、助手が抱えた鞄を指さした。
「その中に腕の図がある。あとで机へ広げておいてくれ」
「資料の話をしているんじゃありません!」
枕へ頭を沈めると、助手の声がひどく遠くに聞こえた。
「エレア様、まだ話は……!」
目を閉じると、助手の声も聞こえなくなった。




