12話 火種
腹の痛みで目が覚めた。身を起こすと、濡れた服が石の床から剥がれ、脇腹に鋭い痛みが走った。手首の固定具は外されていたが、その跡は赤く腫れている。鉄格子を伝う水が、床の溝へ絶えず落ちていた。
「せ、先生……」
壁際で膝を抱えていた放出女が、こちらへ身を寄せた。袖から覗く腕には幾重にも火傷が重なり、頬にも新しい傷があった。
「お願いです。ここから出してください。もう、あんなこと……」
指先へ魔力を集めかけたが、まだ僅かしか戻っていなかった。格子の向こうには、私が吊られていた実験場が見えた。水が跳ねるたびに、床へ寝かされた人間の脚が動いている。
「魔力が回復しないな」
「格子の中に自然回復を遮断する陣が描かれていて、実験の時だけ無理やりポーションを飲まされ、魔法を使って……。出せなくなっても、また……」
女が私の袖へ手を伸ばしたところで、修道女が格子の前へ来た。
「あなたは壁際へ。その子が先です」
「嫌……。まだ、腕が痛いんです。もう少し待ってください」
女が袖を握り込んだ。修道女の杖先から水が伸び、格子の隙間を通って女の手首へ巻きついた。私の袖から指が離れ、腕を引かれるままに身体が前へ倒れた。
「せ、先生!」
「お前も水魔法か。随分偏りがあるな」
「水は心を清めてくれます。エズ様と同じ属性を神から授かり、私は光栄です」
「ふふっ、随分と神の残飯をありがたっているが、所詮お前も残飯の食べ方に疑問を持たなかったんだろうな」
「黙りなさい!」
修道女の杖先から太い水が脇腹に伸び、鈍痛が響く。
「ぐっ……」
「さぁ、行きますよ」
格子戸が開き、放出女は片膝をついたまま外へ引かれた。私は壁へ手をついて立ち上がりかけたが、脇腹が引きつって息が止まった。残った魔力を今使い切れば、あの水を振り払えても、その先が続かない。
「お願い、先生……! 助けて!」
修道女は放出女を実験場へ連れ出し、こちらへ杖を向けたまま格子戸を閉じた。私は鉄の棒に指を添え、継ぎ目に沿って滑らせた。冷たい水を押しのけても、すぐに上から流れてくる。炎で熱したところで、こうして冷やし続けるわけか。
格子戸と壁の接合部を確かめていると、向こうで女の悲鳴が上がった。顔を上げると、実験台へ押さえつけられた女の脚が跳ねていた。修道女が腕を押さえ、修道着の男がその手元から細い針を抜いている。
あれを入れた後で、魔法を使わせるのか。男の置いた小瓶を見ようとしたが、その前へ修道女が立ち、杖先をこちらへ向けた。
「次はあなたです。両手を出しなさい」
差し出した手を、格子越しに水が包んだ。実験場へ歩かされ、机の脇の椅子へ座らされると、木の固定具で手首を留められた。水がほどけた後も、濡れた袖口が板へ張りついていた。
「学校の名は」
修道着の男が、開いた手帳を私の前へ置いた。放出男から受け取った聖堂の形が、そこに描かれていた。
手帳を確かめていると、肩へ水の鞭が打ちつけられた。身体が椅子の上で折れ、固定具に引っかかった手首に痛みが走った。
「あなたの学校を聞いているのです」
「……ミルファーゼだ」
学校の名なら、あの女にも確かめられる。息を吸おうとしたが、脇腹が痛んで深く吸えなかった。
男は実験台で拘束されている放出女を見下ろした。
「間違いありませんか」
「は、はい……。エレア先生です……」
男は紙へ何かを書き、再び手帳を私へ向けた。
「誰から、この場所を聞いたのですか」
「聖堂の形を、見ただけだ」
「地下で何をしているかも知らずに、入ってきたと?」
返事をする前に、顎の下へ冷たい水が打ちつけられた。歯がかち合い、舌の先に鋭い痛みが走った。
「どこで知ったのです。答えなさい」
同じ問いを繰り返されるたびに、水が肩と腹を打った。私は擬態魔法を確かめに来たことだけを答え、誰から知ったかは話さなかった。学校へ戻った実験体がいることまで教えてしまう。
男が手帳をめくっている間に、口の中へ溜まった血を飲み込んだ。頁の下から別の紙が覗いていた。腕の図と、その脇に並ぶ書き込み。男は放出女を押さえる修道女へ短く指示し、その紙へ新しい線を書き加えた。
女の処置をそこで記録しているのか。
「この腕は、誰のものです」
手帳が目の前へ押しつけられた。緑色の光が出た位置を描き写した、ピュラの腕だった。
「私の……生徒だ」
「何を投与したのです。どこから手に入れた?」
私は口を閉じた。頬へ水が打ちつけられ、血の混じった唾液が顎を伝った。
「学校に、あるものだ」
「薬の名を聞いているのです」
男の手が上がり、私は奥歯を噛み締めた。次の一撃で椅子ごと傾き、固定具に留められた手首と、傷んだ肩へ体重がかかった。
地下研究室と助手に繋がる話は出せない。男が手帳を開く間に、浅く息を継いだ。
傍らで修道女が杖を持ち替え、腰の革袋から小瓶を抜いた。栓を外した途端、飲み慣れたポーションの匂いが鼻先をかすめた。半分ほど飲んだところで栓を戻し、同じ袋へ収めている。格子を流れる水は、その間も途切れなかった。
あの瓶なら、手が届きさえすればいい。私は指を開き、板に留められた手がどこまで動くかを確かめた。修道女の杖先が上がったので、指を止めた。
薬の入手先を聞く問いが、作り方へ変わった。私が黙るたびに鞭が飛び、口を開けば、男はその先を待った。材料を答える代わりに咳き込むと、濡れた髪をつかまれ、顔を起こされた。
「次に聞く時には、答えを用意しておきなさい」
髪から手が離れた。男は手帳を紙の束へ重ね、机の奥へ置いた。再び水が両手を包んでから、手首の固定具が外された。
指は曲げられる。炎を使う相手なら、この水で封じられるわけか。
私は立ち上がり、修道女に促されるまま格子戸をくぐった。鍵が差し込まれる時には、女の腕がすぐそばにあった。私は壁へ背を預け、腹に当てた肘を少しずつずらした。痛みが引く姿勢を探しながら、次に扉が開く時の手の届く範囲を確かめた。
実験台では、放出女の口元へ杯が押し当てられていた。女が首を振ると、男は顎をつかんで上へ向けた。修道女が腕を押さえ、掌を壁際の木片へ向けさせる。
透明な何かが指の先で揺れた。木片が激しく燃え上がったが、修道女の身体に遮られ、その先が見えなくなった。
身をずらして覗こうとすると、修道女がこちらへ杖を向けた。私は壁へ肩を戻し、掌の中へ僅かな魔力を集め直した。自力で戻る分だけでは、まだ足りない。
格子戸が開くと、腕を引かれた放出女が足をもつれさせ、私のそばへ崩れた。修道女はその背から手を離し、扉を閉めた。
「先生……。もう、ここは嫌です。一緒に帰らせてください……」
私は女の上体を起こし、袖をまくった。赤く腫れた腕に、新しい針の跡が並んでいた。
「さっき、何を入れられた?」
「分かりません……。でも、魔法が……」
女は掌を見下ろし、指を曲げた。
「炎が、おかしくなったんです」
「見せてみろ。少しでいい」
「元に戻せますか?」
「まだ何も見ていないだろう」
女は格子の外をうかがってから、床の木の椀を引き寄せた。震える掌を差し出すと、指の間に透明な塊が生まれた。水のように揺れているが、手を傾けても零れない。細く伸びた先端が、椀の縁へ触れた。
木が激しく燃え上がった。透明な筋が椀へ巻きつき、表面を薄く覆ったまま、その下の木を黒く変えていく。私は格子を伝う水を掬い、そこへ浴びせた。水だけが床へ流れ落ち、椀は透明な膜の下で焼け続けていた。
「水をかけても、消えないんです。前の炎は、こんな……」
女が手を握り込むと、透明な膜が薄れて消えた。炭になった椀の縁が崩れ、水の中へ落ちた。
液体の形でまとわりつく炎か。私の雷を液体にしようとした時には、形を保つことすらできなかったのだがな。ピュラの腕では、熱を外へ逃がす働きまで止めかけた。こいつの炎は姿を変えたまま、触れたものを焼き続けている。
「さっき、お前の処置を書いていたのは、あの机の紙か?」
「はい……。終わると、後ろの棚に戻すんです。お願いします。私も……」
女が私の袖をつかんだ。格子の向こうでは、修道女がこちらへ歩き始めていた。
学校の名も、私の名も知られた。こいつを残せば、授業や他の生徒のことまで聞き出されるだろう。どの処置で炎が変わったかも、記録とこいつの身体を照らし合わせたい。
「勝手に魔法を使わないように」
修道女が焼けた椀を一瞥し、杖をこちらへ向けた。
「両手を出しなさい。まだ聞くことがあるそうです」
格子の隙間へ差し出した手を、冷たい水が包んだ。私は立ち上がり、袖にすがる女をそばへ寄せた。
「その子は置いてきなさい」
鍵が回り、格子戸が開いた。修道女が鍵を抜こうとしたところで、私はその手首をつかみ、格子へ押しつけた。
修道女の杖が跳ね上がり、横から水が肩を打った。私は格子へ叩きつけられながらも、空いた手を腰の革袋へ差し入れ、瓶を引き抜いた。手首を離すと、女はすぐに後ろへ下がり、今度は瓶を持つ手へ水を伸ばした。
私は瓶を胸元へ引き寄せ、身体を横にして栓を歯で抜いた。腕へ鞭が食い込んだが、口から瓶を離さず、中身を流し込んだ。
「吐きなさい!」
顎を打たれ、瓶が歯に当たった。口の端から薬と血がこぼれたが、残った分を飲み下した。
空になった瓶を落とし、壁へ肩をついた。脇腹の痛みは消えない。水に打たれた腕も痺れていたが、その内側で、枯れていた魔力が戻り始めていた。
実験場で椅子が倒れた。修道着の男が駆け寄り、開いた格子戸の向こうから掌を突き出した。
床に膝をついていた放出女が、私の袖をつかんだ。私はその背へ腕を回し、格子戸の陰へ引き寄せた。男の放った水が戸を叩き、顔へ飛沫が跳ねた。
「逃がさないように」
「はい、エズ様」
修道女が杖を構えたまま格子戸の脇へ寄ると、男がその横へ進み出た。
「大人しくしておけば命までは奪いません。従来の炎魔法は、水魔法の前では無力ですよ。教師なら知っているでしょう」
男の掌から水の束が伸びた。私は女を抱えたまま身体をひねり、肩に水の束を受けた。肺から息が漏れたが、足を踏ん張って身体を支えた。戻った魔力を頭の内側へ集める。
「そうだな、炎魔法ならな。研究は好きだろ? ふふっ、人生最高の時間にしてあげよう」
男の掌に次の水が膨らんだ。私は袖を握る女へ声をかけた。
「耐えろよ」
放出女を片腕で抱き上げ、空いた手を頭に当てた。髪に指を差し入れ、くしゃりと握り込んだ。
「――神経の加速」




