07:名づけと別れ
自分でも、分かっていた。俺が間違いばかりを犯していると。
ただそれを認めたくなくて、引き返したくなくて、立ち止まることを拒絶した。
立ち止まらなければ、タスクを抱えていれば、俺は前を向いて生きていけていた。
「そんな貴方だからこそ、此処へ迷い込み、そんな思いを抱えていたからこそ、この子はこうして姿を現したのでしょう」
「それで見事術中に嵌り、立ち止まることを選んだってわけか。我ながら自分がなさ過ぎて笑えるな」
一人で生きていくと決めて早三年、俺のあの時の覚悟はものの数時間で粉々に打ち砕かれたわけだ。流されやすいにもほどがある、情けない。
「いいえ、違いますよ。悠弥さん、貴方が今の選択をとれたのは、貴方がこれまで疲弊し、迷い、傷ついてきたからだ。たった今、すねこすりと私に諭されて決めたのではない。ほら、前を見てください、その子がまた寂しそうにしていますよ」
目を伏していたが、サトリの声に反応して視線を上げる。膝に乗ったすねこすりのまん丸い目が俺をじぃっと見つめていた。短いしっぽでぱたぱたと太腿を叩いてきて、まるで「ほら、こんなに可愛いのに、はやく愛でなよ」と訴えかけてきているみたいだ。
「ははっ、面白い解釈ですね、これまでそんな感想を持った方はいなかったですよ、ふははっ」
サトリが腹を抱えて吹き出した。なんだ、人がおセンチになっているというのにこいつは。人の心は読めても空気は読めないのか。
「あぁすみません、他意はないのです。本当に妖怪を眼前に据えてそんな感情を抱く人はここ半世紀程見ていなかったもので、つい我慢できませんでした。」
「へん、いいさ。俺ァこの子に癒されるからな、ほれ。すねこ~うりうり~」
逐一『すねこすり』と種族名みたいなもので呼ぶのも面倒なので、あだ名をつけてやる。以前、相当終わっていると揶揄されたネーミングセンスだが、自分では気に入っている。すねこも同じなのか「ニャァ……グゥル」と喉を鳴らしていた。
近くの雨音とすねこの喉の音。遠くの木々が揺れる音とヒグラシの声。
動画配信サイトにてイヤホン越しで聞いていたような環境音が、直に耳たぶを叩く。
「まさか、妖怪に名をつける方がいるとは思ってもみませんでしたよ」
朗らかな笑顔で、じゃれ合うすねこと俺を見つめるサトリ。
そこまで大層なことはしていないと思うが、名前ってのは俺の思う以上にここでは重要な何某なのだろうか。
「妖怪とは不確かで、不明瞭で、朧気だ。故に己を確立させるうえで与えられた名前が芯となるのです。そんな我らに名を与えるという事は新たな芯……別の存在価値を与えることに他ならない」
サトリの少し骨ばった手がすねこの尾を優しく撫でた。
「言わば貴方は、疑似的にですが新たな命を、その子へ吹き込んだのですよ」
「俺が?」
いきなり仰々しいことを言われ、俺は素っ頓狂な声を漏らした。
サトリの顔とすねこの瞳を交互に見やり、何度も瞬きをする。
命を吹き込んだと言われても、なんの感覚もない。当のすねこは知らぬ存ぜぬで欠伸をしているし、俺だってそんなファンタジックなこと言われても実感がない。
「俺が、こいつの存在を強くさせたってのか?」
「えぇ。この子にとっての『隙』を今、貴方が埋めたのです。素晴らしい結果ですね」
『隙』。サトリが言った元の世界へと帰る為に埋める必要のある何か。
すねこにとってのそれは、不確かな存在を強くすることだったのか。
「私には埋められない『隙』。貴方だから、同様の性質を持つ貴方だからこそすねこすりは、その名を受け入れたのでしょう」
「そんな大層なもんじゃないと思うがねえ?」
膝の上の温かさを感じながら、俺は首を左右に振る。どうにも引っかかる部分はあるが、まあいい。
今は小難しく考えずに、ただ立ち止まろう。
「ええ。えぇ。それがよいでしょう、少なくとも雨が降り止むまではね」
*
どれほど、時間が経っただろうか。雨ももう小降りになり、分厚かった灰色の雲は大分薄くなってきた。
仕事の話や、昨日ここに来るまでの記憶など、他愛もない会話をながら昼食を平らげて時間を浪費した。
「もうそろそろこの子も帰る頃ですね、雨が止みそうだ」
「雨と一緒に消えるのか、こいつは」
「えぇ。すねこすりと雨は切っても切れない関係ですので」
そうか。とつぶやいて俺の周りをトテトテと歩くすねこを見る。
徐に立ち上がって、また抱きかかえた。
「ありがとうな。お前のおかげで、立ち止まれたよ」
「――カウっ」
短く鳴いて、すねこは俺の手を離れて木陰の方へと向かう。そろそろ、お別れ時というわけか。
なんとも、時間にしてみれば数時間の短い間に絆されたもんだ。犬猫の類には興味がないと思っていたんだがな。
濡羽色の前足が影に入ろうとしたところで、すね子はこちらに顔を向けて「シャン」と鳴いた。それが別れの挨拶なのか、楽しかったという意思表示なのかは俺には判断つかなかった。横のサトリに答えを聞くきには、なれなかった。
そんな俺の様子を見たすねこは、するりと影の中へ消えていく。輪郭が完全に闇に同化して、ゆっくりと瞬きをした間に、溶けるように帰っていった。
「行っちまったな。得も言われぬ気持ちってのはこのことを言うんだなあと思うよ」
「そうですね、浮世ではそうそう味わえぬものでしょう。どうでしたかな」
「格別。上々だったよ。まさか俺が名付け親になるとはな」
まさか人間の子供の前に妖怪なんていうファンタジックな存在の親になるとは、人生とは何が起こるかわからないもんである。
「もしかしたら、あの子が仲間を連れてきて、貴方に名付けてほしいと列をなすかもしれませんね」
「ははっ。構わないさ、俺のネーミングセンスが唸る絶好の機会だ。すねみだろ?ねこす、こすりね……まだまだ浮かぶぜ」
指折り思い浮かんだ名前を挙げていると、サトリの顔が分かりやすく引き攣った。
「言いたいことがあるのなら言えよ」
「いえ、別に」
「お前さぁ~。嘘へったくそだよな」
「ふふ、何を仰っているのやら」
唇を尖らせる俺を後目に、奴は台所の方へと向かっていった。
夕飯の支度でもする気だろうか。
誰かが台所に立ち、料理をする光景を久方ぶりに見て俺の胸の奥がじんわりと熱くなった。
おもしろい、つまらない等、どんな感想・評価でもいただければ私はとてもうれしく思います。
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