05:存在と温もり
再び足を動かしたとき、足元に酷い違和感を覚える。何かが足首を掴んでいるような、いつか子供の時田植えをした時、足をすくわれた経験が思い出される。
首をかしげて足元を見ても、なにもない。靴紐でも踏んだかと、俺は足をまた動かした。
一歩、二歩と踏み出すたびに、妙な違和感がついて回る。
足首に、何か柔らかいものが絡みつくような、まとわりつくような感触。
「……なんだ、草でも引っかかってんのか?」
足元を払ってみるが、ズボンの裾には何もついていない。
「……俺が、動くことを拒絶している?」
俺自身が心のどこかでこれ以上あの小屋から離れることを恐れており、それが足取りに影響しているのか。そこまでビビりだったと思いたくないが、それ以外に理由が見当たらない。地面がぬかるんでいるわけでもないのに、嫌に足が重い。
一歩、また一歩と足を進めるたびに足は重くなっていく。それと同時に膨らんでいく俺の中の恐怖心。言いようのない恐れが、堆積していく。
ここで立ち止まってはいけない。立ち止まれば最後、何かにつかまってもう二度と動けなくなる気がした。立ち止まった者から消えていく、正気に戻っていく、馬鹿げたレースを降りていく。正気に戻れていない俺は、立ち止まるわけにはいかないと、強迫観念めいた何かが、俺の身体を動かした。
重い足枷がついたような錯覚に苛まれながらも、俺は何とか足を動かそうと藻掻く。
結果、俺はバランスを崩して地面と熱烈な接吻を交わす。幾年ぶりかという土の味は、とても苦かった。
「痛ってぇ……!そして苦ぇ……!なんなんだよ……ったく……」
顔面に付いた土を掃いながら、視線をあげるとそこに『ナニか』がいた。
黒い、まん丸の何か。犬とも猫ともとれぬそれは視線の先で蠢いていた。
「……」
無音。
もぞもぞと動くそれをじっと見つめ、俺はゆっくりと体を起こす。サトリの言う『害はない』が、俺の基準と同じとは限らない。あいつらにとってのじゃれ合いが、人間にとっては致命傷になることだってあるはずだ。警戒するに越したことは無いだろう。
「クゥル……ルゥ……」
濡羽色の体毛が朝露で所々光っている、黒目がちの眼が俺をじっと見つめ返していた。犬とも猫ともつかない、小さな生き物。野良の……何かなのだろうか。
俺の膝より下、丁度向う脛ぐらいの体長のそれは置きあがった俺の足元にすり寄って、くるくると猫のように喉を鳴らしていた。
「お前が、足元にいたってのか?」
先ほどズボンをはらった時は何もいなかったと思ったが、まあ小動物なんて素早く動くものか。俺の動体視力が衰えているだけだな。
そんな俺の考えは、すぐに否定されることになる。
髪についた土を取り払い、瞬きをすると毛玉の輪郭がぶれる。まるで水を垂らした水彩絵の具のようにジワリと景色に広がったように見えた。
「はっ?……え?」
間抜けな低い声が俺の口から漏れた後、足元に温もりが宿る。咄嗟に足を動かそうとするも先ほどと同じように重く動かしにくい。何とか転ぶことはなく、姿勢を整えて足首を見る。
少し離れた場所に居たはずの毛玉が、足元でクゥンと鳴き弁慶の泣き所に額をこすっていた。
「……ありえ、ない」
雨、ないしは雨の上がりの夜、足元に這いより人の動きを邪魔する妖怪。それを俺は知っている。幼き頃に母から聞かされた幾つもの話。……その中に、『すねこすり』という名称で知られている妖怪が居たはずだ。
――あり得ない。
一度口にした言葉を、脳内でリフレインする。そうしないと、認めてしまう。
あり得ないのだ、妖怪なんて居ないはずなのだ。なのに目の前にはそうとしか思えない存在が俺にふれている。そして俺は、それに触れて温かさを覚えている。どかそうと思えば足でも何でも力づくで出来てしまうだろうに、柔らかい毛並みを退けることが何故だかできない。
「おや、気に入られた様子ですね」
振り返ると、いつの間にかサトリが近くに立っていた。
「サトリ、いつから……」
「少し離れたところで見守らせていただいておりました」
「お前の差し金か?」
この妖怪擬きが現れたタイミングが良すぎる。もし、こいつの手のひらの上ならば俺はどれほど滑稽だ?
「いいえ、いいえ。違いますとも。私と他の子たちに優劣や主従関係はない、妖怪は何者にも縛られないのです。」
「じゃあなんだってコイツは急に俺のもとに現れたんだよ」
「きっとあなたが寂しそうに思えたんでしょう。同類がいるぞ、と」
「は?」
サトリの言葉に既視感を覚え、記憶をたどる。
その瞬間、脳裏に優しい声色が蘇る。白い病室で、読み聞かせてくれた母の声。何時しか聞いたこの毛玉が人の邪魔だけをして他に害をなすことはしない理由。
『それはきっと、寂しいんだと思うの。一人で歩いている人を見つけて、ついていきたくなっちゃうのよ』
母は、そう言って笑っていた。
「……すねこすり、か」
ぽつりと呟くと、その生き物は小さく「ニャァ」と鳴いた。まるで、名前を呼ばれて返事をしたように。
「おやおや。ご存知でしたか、案外我々について造詣深い方なのでしょうか?」
「別に。幼い頃の名残だ、母が好きだったんだよ」
今はもう朧気になりつつある母の顔を思い浮かべ、サトリの問いに答えた。
「――そうでしたか。」
俺の言葉に返答を詰まらせるサトリ。先ほどは俺のトラウマを刺激して見せた癖に、申し訳なさそうにするじゃないか。心を読むというプライバシーの欠片もない能力の妖怪の割にはその辺、ちゃんと現代に適合してるんだな。
「気にするなよ。別に隠していることでもない。」
足元の毛玉を撫でて、サトリに告げる。
ごわごわとした若干湿気ている濡羽色の毛が、俺の手に合わせて形を変えた。
驚くほど温かい。久しく忘れていた、誰かの温もりのような熱が、掌から伝わってくる。
くるくると可愛らしく喉を鳴らす暫定妖怪の毛玉を見つめ、俺は昨夜のサトリの言葉を思い出した。
――『此処における人間や妖怪に、明確な差はない。人が抱く郷愁や悔恨と、妖怪が抱く哀愁や欲望がこの狭間を形作る。』
居るはずない、が、いる。
ありえない、が、ある。
そんな不確かな境界がここなんだろうな。
理屈や理論は不要で、ただそこにいる生き物は全霊でそこに存在しているだけ。
あぁ、なんて、……なんて好い世界だ。そう思えてしまった。
おもしろい、つまらない等、どんな感想・評価でもいただければ私はとてもうれしく思います。
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