49:置手紙
思えば、長くここに居た。最初の頃はどうやって帰ろうとしたものかと思案したものだが、いざ帰れるとなれば名残惜しくなるのだから都合がいい思考をしている。
俺は、食事の後片付けを済ませ見慣れた天井を見上げる。
木造のそれは、実家のものとも俺の自宅のものとも違うのに、とても俺の心を落ち着かせる。
最初にあった疎外感、異物感はもう欠片も残っていない。
「最後まで、律儀に皿洗いなどしなくても良かったんですよ?」
「馬鹿言うな。俺なりの礼儀だぜ、やらせてくれよ。サトリ」
「なんともまあ。そう言われたら返しようもない」
口元に手を当てて、嬉しそうに笑ってくれるサトリ。
それを見て、俺も目を細めた。
こういったやり取りも、もうすることは無い。最後の晩餐にしちゃあちょいと素朴だが、俺らしい。
いろいろと考えたが、こういった別れが俺達には似合うだろう。
帰ると決めた以上、その道を失わない。
別れは辛いが、言葉のない別れはもっと悲しい。
別れを告げられぬ離別など、もう二度とあってたまるか。
「じゃあ。俺」
「そろそろ。ですね」
ネクタイを締めて、万年筆を胸ポケットに仕舞い、ここに来た時と同じに戻る。シャツの第一ボタンまでしっかりと閉じたのは久しぶりだ。
首を緩く締めるネクタイとシャツの感覚が、俺を現実へと導く。
「お見送り、してもよろしいですか」
「あぁ。ぜひ頼む。」
サトリに応えた俺の言葉は、ちょっとだけ震えていた。
*
靄に包まれていた景色はそのままに、足元の道だけしっかりと見えている。
未来は真っ白だが、進むべき道だけはしっかりとそこにある。
白紙の空間に、ひたすらにまっすぐ伸びる道を踏みしめて、俺は立つ。
ここでの思い出、これまでの後悔。様々な感情がまぜこぜになって笑いとなり俺を動かした。
これから起こる事柄に、俺は真の意味での後悔はない。
悔やみもするし、もしこうしたらという考え方もするかもしれないが。
俺の選択を取り消すようなことは決してしないと断言できる。
足を動かす度に鳴る砂利の音が、現実を意識させる。
「幾度となく繰り返してきましたが、慣れるものではありませんね」
「ははっ、そりゃそうだ。なれる奴がいるってなら、そいつは人の心がない奴だぜ」
軽口が転がっていく。
別れは、近い。
「なあ、俺はさ、またここに来れるかな」
「…………分かり、ません。」
思考を巡らせて出したであろうサトリの答えは、解答不能。
彼の長い妖怪人生のなかでも、類例を見ない事なのだろうという事は実現性が限りなく低いと言外に伝えていた。
「俺自身が、泥田坊のように妖に転じれば或いはあり得るか」
泥田坊は元々人間で、恨みや後悔から妖怪に変成したらしいではないか。それに酒吞童子もどこかの文献では人と神様の混血であるっていう説もあった。
なら人である俺も妖怪に変わる事もあり得ない話では、ないかもしれない。
「縁起でもない事を言わないでください。それも本心から」
「はっはっは。それほど別れが惜しいんだよ。大目に見てくれ」
これで湿っぽい別れにはならないか。
ちょっとわざとらしかったかな。
俺の思惑は、案の定覗き魔にはバレているらしい。
仕方ない奴と言わんばかりに笑っていやがる。
――さて、そろそろ行かないと。
「どうあれ、今は分からない事ってコトだ。じゃあ俺は精一杯俺らしく生きるよ」
「そうですね。とどのつまり――」
俺は続く言葉を読み、にやりと笑った。
「 「なるようになる。」 」
俺に十八番の読心術を模倣され、細い目を見張り心底驚いた表情を見せるサトリ。
してやったり。と俺は笑い、親指を突き立てた。
「じゃあなァ!サトリぃ!機会があったのなら、また逢おうぜ!案内人!」
「えぇ。――いってらっしゃい」
踵を返して真っ白な空間に向き直る。
何が待ち構えているのか分からない。どのような苦難が潜んでいるかも知らない。
でも。
歩き方は知っている。母と父から教わった。
歩むべき道も分かった。愛している人から教わった。
いざという時に立ち止まる術も知った。ここの妖怪達に教わった。
もう、怖いものは無い。
「ったく。歩きにくいったらないぜ。」
小石や草が散らばる道を、俺は踏みしめる。
歩きにくいのは、この道のせいだけではない。
脳裏に未だ残る『シャン』という鳴き声、『ありがとう』という言葉、瑞々しいきゅうりの味、蹴鞠を蹴った感覚、そしてなにより幻に包まれた景色。
目元の雫を拭い、俺は歩む。
少しずつ、一歩ずつ。
じゃくじゃくと音を立て、決して転ばぬ様に。
*――*――*
蟲達の聲を耳に受け、私は彼の背中を見送る。
本当に、あっという間の出来事であった。
完全に姿が見えなくなった頃には、もう日が沈んでいた。
静寂に包まれた我が家。いつも通りであるはずなのに、嫌に静けさが耳を打つ。
「おや。これは……」
机に置かれた白い紙。彼の『あの筆』で書かれたであろう文字が記されている。
『サトリへ』。
真面目な彼が残した『礼』。文字にせずとも、言葉にせずとも思うだけで私には透けて見えるというのに。
「……。拝読、いたしましたよ。守屋悠弥さん」
私の世界を透かす眼は、最後の一文に奪われる。
『これまで、ありがとうな。』
「まったく。何度も言う言葉でないでしょうに」
さて、額縁はどこにあっただろうか。
彼から託された泥田坊への手紙も含めしっかりと保管しておこう。
いずれの未来に、彼の意思を残す為。
「こちらこそ……ありがとうございました。」
私の呟きは、初夏の風に運ばれて夜空へと消える。
おもしろい、つまらない等、どんな感想・評価でもいただければ私はとてもうれしく思います。
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