50:何でもない
目覚めは、笑っちまうほど呆気なかった。
ヨレヨレのシャツで、リビングに俺は寝っ転がっていた。
ソファで寝ていたせいか体が硬い。
聞きなれたヒグラシの声はない。
スマホのカレンダーは五月の末、午前11時程を示す。
「…………ただいま。」と呟いて笑った。
開けっぱなしにしていたせいで完全に炭酸が抜けたエナドリの缶を処理して、俺は現実に戻ってきたのだと理解する。
それと同時に、朧気だった記憶も蘇る。
どうやら、俺は金曜日にしこたま酒を呑み今に至るらしい。
日付を確認すると、日曜。
丸一日経っていることになる。
あの狭間での一幕は、現実におけるたった一日の出来事だったのか。
じゃああの妖怪たちは酩酊した俺が生み出したものだったのかとも思ったが、どこまでも晴れやかで、満ち足りている感覚が、あの出来事に意味はあったのだと告げていた。
あの朗らかな案内人の言葉を借りるのなら、どちらでもいいことだろう。妖怪達にとってそれは論じるに値しないものだ。
「草臥れた顔だなあ」
ある程度散らかった部屋を片し終えた後、俺は洗面台で疲れ切ったおじさんの顔を見る。
自分でも笑ってしまうほどの疲弊した男。様々なことから目をそらし、生きる意味を失って、逃げ出す勇気すら出せなかった男の顔は、酷く惨めに見えた。
こんな顔を、未来に見せるわけにはいかない。
顔を洗ってからと思ったが、正解だな。せっかくだからシャワーも浴びておくか。
そう思うが早いか、俺は浴室に入っていた。
ぬるま湯を出して全身を洗っていく。
汗ばんでいた身体が綺麗になっていき、心だけでなく体も身軽になる。
目覚めてから数十分、漸く俺は寝室の扉に手をかけた。
ドクドクと、心臓が早鐘を打つ。
緊張はするが、怖さはない。
帰還した後の一言はずっと決めていた。
誰に言うかも、なんて言うかも。
「ただいま。未来」
面白いほどに、優しい声が出た。
それに応える声はない。
窓も締め切っているので俺の心臓の音のみが響いた。
不格好な仏壇の中央に鎮座する満面の笑みの未来を見て、目頭が熱くなる。
言えた。
やっと、癒えた。
「俺、帰って来たよ」
俺の妄言に、『おかえり』という言葉はない。
それでも、ひとりよがりの想いだとしても、俺は未来に思いを伝えられた。
その事実が、何よりもうれしかった。
ずっと目を瞑り思いの丈を全部ぶつける。
悲しかったこと、死んでほしくなかったこと、俺の前から消えてほしくなかったこと。
そしてそれら全部を飲み込んで、愛することを、愛されていたことを認められたことを。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
腹の虫が鳴った。
……サトリに言った様に、父さんを食事に誘うか。
いや、流石に急すぎるな。
今度、また時機を見て電話をかけてみよう。
立ち上がった時、胸ポケットから万年筆がぬけ落ちる。
フローリングの床に硬い万年筆が転がって、音を鳴らした。
「ふ。」
声が漏れた。
「はは、そうか。お前は、そう思うよな」
思えば、いつも問題を先送りにしがちだった俺の行動を決めてくれていたのは未来だった。優柔不断な俺と正反対な、迅速果断を体現したような彼女の声が耳に蘇る。
『悩んだら今、即行動!迷ったら八分考える!それで答えが出ないなら相談!これ鉄則ね』
『なんだよその八分て、どっから来た時間だ』
『わたしの経験則、分かんないことは10分考えても解んないもん、悠弥はあたしより頭いいから、そこを考慮して八分!』
『褒められてる?俺』
『うん!なんたってわたしが好きになった男だよ!』
『……反応に困るぜ』
『ちゃんと受け取りなさい!』
『はいはい、わぁ~ったよ』
――いつかの記憶に、俺は笑みが零れた。
万年筆を拾い上げ、仕舞い、俺はスマホを操作する。
一体いつ振りかという電話帳のアプリを開いて父のところをタップした。
コール音を耳に受け、俺は待つ。
数字にしたらなんてことのない短い時間が、妙に長く感じた。
「もしもし。どうした、何かあったのかな」
低い声が、受話口越しに鳴る。
父の声だ。
何年ぶりに聞いたであろう息子の声を聴いても一切動じていない。
流石だな、と思いつつ言葉を紡いだ。
「あぁ、久しぶり。別にさ、何かがあったわけじゃない……いやあったはあったんだが――まあ兎も角さ、飯、食いにいかね?」
「ほう?……成程。よほどのことがあったらしい。君が私をご飯に誘うなどと、これまでにはありあえない話だったからね。――いいよ、どれほどの出来事が君を此処まで変心させたのか、聞かせてもらおうかな」
父の言葉は、記憶にあるよりずっと理性的だった。
電話で話すには、ちょっと突飛なこと過ぎるから、実際に会って話したい。
妖怪好きの母を好きになった男らしく、父も土着の伝承などには造詣深いからきっと興味津々で聞いてくれるだろう。
「そうだな、君、いつこっちに来られる。私は暇だからね、いつでも構わないが」
「来週ぐらいはどうだ?土日のどっちかに行きたい」
「そうか。なら来週に来なさい。御馳走を用意しておこう」
「おう、じゃあまた来週」
通話終了の画面を見つめて、会話を振り返る。
ちゃんと、話せていただろうか。
正直、なんて言っていたか朧気だ。取り敢えず飯に誘う事しか考えていなかった。
「でも、出来たな。俺」
スマホを鞄に仕舞い、俺はでかける支度をする。
次にするべきことは、決まっているからだ。
「花屋って、近くでどこにあったかな」
どんな花がいいだろう。
母が好きだった花なんて知らないな。
「もしもし?父さん、花ってどんなのが好きだった?」
「……藪から棒にどうした?本当に、何があったのか、本気で興味が湧いてきたよ。」
すごく気軽に父に電話をかけた。
聞くと、百合の花が好きだったそうだ。
それならば季節の花というわけでもないから丁度いいなと思い、俺はスマホで近所の花屋を検索し、足を向けた。
「花。持っていくよ」
「そうかい。きっと、お母さんも喜ぶよ。私にもそうだが、彼女にもいろいろと聞かせてやって欲しいな」
「あぁ。そのつもりだ」
嬉しそうな父の声。
座敷童の言っていた通りに、俺を優しく迎えてくれそうだ。
「逐一電話も面倒だろう?メールの方が楽じゃないかな」
「まあそうだけど、俺父さんのメアドとかアプリの友達登録してねえもん」
「だからそれをしたらいいと言っているのだがね」
「え、やってるってかやれんの?アプリ」
「私を何だと思っているのかな、君は」
軽口を転がして、俺は笑う。
やっぱり俺と父は同じ血が流れてる。話しやすいったらないぜ。
「さて、今日のめしの具材も、調達するとしますかね」
*
昼食は適当に済ませて、俺は家へと戻る。
見慣れた部屋の真ん中に座り、目を瞑った。
耳鳴りがする。
どこにも、あの懐かしさを掻き立てる声はない。
俺は、今を生きている。
買ったまま積み重なっていた本を読んでいると、腹の虫が鳴った。
もう日は暮れていた。
適当に買い漁った野菜を切り、適当に肉と炒めて腹に入れる。
初めて豆腐を切ってみそ汁も作ってみたが、味気ないな。味噌や出汁がたりなかったか。
サトリが用意してくれた食事の数々に比べることすら烏滸がましいと思えるほどのチープな食事だ。
でも、美味しい。
美味しいと思えるその感覚が、どうにも嬉しかった。
「ごちそうさまでした」
手を合わせて食器を片す。
ムクロジの洗剤とは違う匂いは、いい匂いではあるがどこか物足りなさを覚える。
「作って、見ようかな」
ぬらりひょん曰く、そこまで難しくないらしいので、今度暇を見て作ってみてもいいかもしれない。
手持ち無沙汰になって、仕事をする気にもならず、何かを求めてベランダに出た。
夜空には、星はない。
薄いグレイの膜に覆われた都会の空は、見慣れているはずなのに目新しさを覚える。
「今年は七夕、晴れるといいな」
これにて、この物語は終わりを迎えました。
ご閲覧、誠にありがとうございました。




