44:真実と生
不思議と、痛みはなかった。
彼女を抱きしめたとたん、視界は黒に染まり浮遊感が俺を包む。
言語化がかなり難しい……というより言葉にすると陳腐になるような感じがする。それでもあえて言葉にするのならば、うつらうつらと微睡みの中。自分が立っているのか寝転がっているのかさえも分からない。穏やかな波に揺られている船、或いは揺りかごの中で眠る赤子。
そんな優しい雰囲気がこの状況には合っている気がした。
雪女も、サトリも、酒吞童子も何処にも居ない。
俺と、彼女の二人きり。
いや、違うか。
ここは全ての境界があいまいになる場所だ、だからこそ俺から生まれた偽の未来と、俺本人は同一視される。だから、今俺は一人きり。
ひとりきりだからこそ、この選択が意味を成す。
愚かな、あまりにも愚昧な俺に許された行為。それは呪いを受け入れて果てること。
どうすればいいのか、何をすれば彼女を救えるか。
それがこの選択。
守屋悠弥に残された唯一の択。
この選択の結果、どのような結末になるとしても、俺はそれを受け入れられる。
そこまで力は入っていないと思うが、波に攫われる砂のように徐々に形を失っていく彼女の幻影。四肢から俺に吸い込まれていき、呪いと化す。瘴気が晴れていくと同時に、俺の視界が暗く淀んでいく。
俺は、ずっと彼女にこんな世界を見せていたのか。
昏く、色素が一段階落ちたような味気ない世界。
俺は、とんでもない犯罪者だなあ。
「ごめんな、ごめんな。未来。ずっと一人にして。これからは、ずっと一緒だからな」
俺の謝罪に呼応するように、脳裏に言葉が響く。
『ずっと。何かを望んでいた気がする。』
『ずっと。何かを否定していた気がする。』
男の声でもない、女の声でもない。不思議な声が腹の底から響いた。
それと同時にあの時の記憶が蘇る。
「あぁ、そうか。そうだよな、誰だってそうする、俺だってそうだ。」
血に濡れる綺麗な黒髪を見て、俺はそれを拒絶した。俺はその情報を否定したかった。ブリキ人形のようにぎこちない動きで、首を横に動かした。
嫌だ、と。
死んでほしくない。と。
そう願ったのだ。何でもすると、神でも悪魔であろうと関係ない、未来を救ってくれ。俺は確かに願った。
「拍子抜けしたか?俺は、こんな単純なバカみてえな願いで俺自身と君を呪ったんだぜ」
呪いの四肢が完全に融けて、黒が透けて見えてくる。
――未来の顔が見えてくる。
頬に生ぬるい雫が垂れた。
徐々にチリチリと肌が焼けるような感覚を覚える。
なんとも優しい火炙りだこと。
俺には、罪人には、もっと強い炎が必要だろうに。
「あぁ、久しぶりに……君の目を見た気がするよ」
手作りの仏壇には、いつも手を合わせていたのにも関わらず、俺は彼女の顔を見ていなかった。
何度も見ていたはずの彼女の瞳に、俺は息を呑む。
「は、はははっ。」
思わず、笑いが零れる。
どう取り繕うと、どう偽物の論理をこねようと、この想いは真実だ。
死にたくない、死なせたくない。いいや違う、この想いの源。
それは即ち……。
「星河未来。俺は、君を、愛している」
『愛』に、相違ない。
*
チリチリとした痛みが、徐々に手足の末端の感覚と共に消えていく。
ごく優しい火刑に処され、俺は笑っていた。
指先から、始まり。次に手のひら、次に肘。順番に、丁寧に、自分が解体されていく。
苦しくはない。むしろ晴れやかな気分だ。
頬に雫が伝う。
これで、いい。涙や呪いごと全てまとめて焼き尽くせ。
天国だの地獄だのがあるか知らないが、きっと俺は彼女が居るところには行けないだろう。でも、灰燼に帰すまでに……せめて一目見るぐらいは許してほしいと願う。
どこまでも強欲で傲慢な願いだが、それこそが人の所以であると思うので曲げるつもりは無い。
あぁ、とても、とても眠たくなってきた。
思考が微睡んでいく。
「あぁ、魅せて、もらったわ。貴方の『愛』。愛しい貴方」
冷たい声が、耳を震わせる。
刹那、俺を包んでいた黒は霧散……いや、違う。
虚ろな影は俺の胸に収束するかのように消えた。あるべき場所に戻ったかのようにしんと収まる。
数秒の間を開けずに俺は瞼を開く。
サトリが用意した偽りの部屋が当たり前だと言わんばかりにそこにあった。
視界が、青い。
何が、起こった。
「貴方の愛は、このわたしが見届けたわ。」
ぴきりと、宝石が罅割れるような音。
「おかえりなさい」
続けて、ひときわ大きな世界諸共割れるような音が鳴る。今度は氷が砕けた音というより、鈴が砕け散る音に近いか。
浮遊感が失われ、俺は床に伏す。俺と一緒に床に散らばる青い結晶は、氷か?
俺は、氷漬けにされていた?
今気づいたが、俺は息をしていなかった。
反射的に俺の肺は空気を欲し脈動する。
「かはっ、はぁ……お、俺、は……。未来は、どこだ?何故、雪女が。ここは?」
絶え絶えな状態で、何とか言葉を紡ぐ。
これは、一体どういう状況なのだ。
未来を抱きしめてから、何が起こった。
「悠弥さん。どうか落ち着いて。」
「さ、とり……なんで、何故……」
混乱する脳を無理やり働かせ、状況をかみ砕く。
俺は、生き残ったのか。
何故。
俺は、呪いを一身に受けて消えるつもりだった。
直感が間違っていたのか、だとすればあのチリチリとした肌の痛みは何だ。
「あぁ、愛しい貴方。それが、貴方の愛。普遍なる愛。すごく、美しいわ」
「雪……女……何故だ……」
その答えは、すでに床に散らばっていた。
あれは、霜焼け。或いは低温やけどに近いものか。
俺が完全に呪いと同化する前に、結界を張る様に俺の身体を氷結させてそれを防いだ。
『どのようにして』は分かった。
しかし、俺の口は同じ言葉を繰り返す。
「何故……」
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