40:嘘と温もり
真に賢い者は、自分を知っているものだろう。真に愚かな者は、自分を欺くものだろう。などとクサイ台詞を大学の教授が言っていたと、彼女と笑いあった日を思い出す。
そして今、自分の愚かさに吐き気すら覚える。とてもじゃないが笑えない。
「嘘が、上手なのね」
「どこがだよ、嘘が上手いのならだれにも覚られるなって話だ」
俺は、力なく項垂れる。
もはや、酒を口に運ぶ気力すら残っていなかった。
これ以上なく惨めで、無様。そしてそのうえで救いようのない大馬鹿者。それが『守屋悠弥』という三十路の男だ。
「いいえ」
俺の否定に、雪がかぶさった。
違う。違うんだ、俺は目をそらしていただけ、座敷童が言った様に記憶はなくならない、酒吞童子が看破したように俺は彼女の事を忘れようとすらしていない。
「悠弥さん。私にも言わせてください。貴方の嘘は、酷く優しく、独善的だ」
これまで静かだった、サトリが口を開いた。
彼の細い目が、俺を貫く。
胸の奥を、冷たい刃で探り当てられたような感覚。
俺は無意識に、両手で自分を抱え込むように姿勢を丸めていた。
「貴方と最初に出会った次の朝、私には貴方の『隙』の全貌は見えていなかった。だからあのような不明瞭な言葉でした」
「……なんの、ことだ」
最初の朝……あの時、サトリは何と言った? 靄のかかった記憶の奥から、低く静かな声が蘇ってくる。
『……恐れている。全てを手放して、生きている』
そうだ。あの時、俺はそう言われた。
「あの時私には、貴方は全てに恐れ、全てを手放して生きているように見えた」
「……っは。やっぱりあんた、凄いな。思い出したよ、虚勢はってあんたに嚙みついた時だ。そん時から俺の醜悪な欲望を見透かしていたってわけだ」
妖怪など信じられるかと悪態をついて俺のトラウマを言い当てられた時のことだ。
すねこと出会う前。
最初っから、俺の見たくないものはサトリの双眸には透けて見えていたらしい。
「だから言ったろう?俺は嘘が下手なんだよ」
「そうではありませんよ悠弥さん。雪女が嘘と言ったのは貴方の悲しい処世術のことです。そうですね?」
「えぇ。とても、痛ましく、冷たいわ」
何を言っているのか、俺にはわからない。
「貴方は、自分に嘘を吐くことでしか、自分を愛せなかったのね」
語り手が、雪女へと変わる。
混乱した俺の脳みそが、理解を拒む。
「そやろかなあ、嘘でもええやん。それが自分で決めた道なんやろ?その道ぃ往く決めたんやったらしゃんとしいや」
「ほんとうに、あなたとはそりが合わない」
酒吞童子は憐憫を抱く二人とは打って変わって、嘘と事実の境界を溶かす。
「そうかえ?我はそないに嫌ぁな気ぃせぇへんけどなあ。あ、せやせや、我がこの酒呑み切る間、自分これ持っといておくれやす。ええ感じに冷えて桃が美味くなるさかい」
「わたしは、冷蔵庫じゃない」
「俺は――酒吞童子の意見に賛成だ。それが俺自身の定めた道なのだから。他責の末生まれた虚言だとて、それも含めて俺だ」
俺は必死に、鬼の投げた蜘蛛の糸にしがみついた。
サトリと雪女の言う『優しさ』を認めてしまえば、俺は本当に壊れてしまう気がしたからだ。
「そう……。それは、とても……哀しいわ。あぁ、どうか愛しい悠弥、一度しっかりと自分を見てあげて」
俺は、雪女の言葉に目を伏せる。
これまでの人生で一番というほど、自分を見た結果気付いたのだ。俺がとんでもない欺瞞の上に生きていたという事実に。
「とても優しい貴方は、自分の行動で生じる負の感情の全てを自分の責任と背負い込んでいる。そして、それを生まれさせた自分の価値を……極限まで低く見ている」
「低く見てるんじゃあない、それが正当な評価だってだけだ」
「……」
サトリは俺の言葉に首を振る。
「人は生きる上で必ず誰かに不利益を齎す。ですが、それ以上に誰かに必要とされるのです。貴方は、他でもない未来さんに愛されていたのでしょう?」
「だからだ!だから、その愛に応えられない俺に!どれほどの価値がある!どれほど愛されようとも、どれほど必要と期待されようとも!俺は必ずそれを裏切る!その恐怖があんたにはわかるか?!」
つい、唾を飛ばしてしまった。八つ当たりにもほどがある。
両親と、彼女は素晴らしい人間だ。太陽のような温かさと、強さを持っていた。
その分、俺の暗い部分が照らされてしまう。
「くかっ、くかかっ!その目ぇ!ええなあ守坊、ようやく素直になってきたやん。その調子で全部晒してみいや。嘘でもなんでもええけど自分で決めた道だけは違えたあかんで」
俺達の酒気交じりの吐息が、白く色づいていく。
「わたしには――――解る。解ってしまうの、だから……」
「雪女……」
雪女がおもむろに立ち上がり、手を空に掲げる。
薄灰色の空に、白い雪が舞い踊った。
その雪は不思議と冷たくなく、ただ静かに、俺の頬に触れて溶けた。
まるで、誰かの涙のように。
「わたしは、愛を乞う者の前に現れる。けれど、いつも愛する人の前からわたしが消えてしまう。それが嫌で、殿方を凍てつかせたこともあったわ。けれど、虚しさは変わらなかった」
伝承にある雪女は、確か男と結ばれて子供ができた後に雪女という怪異であることがばれてしまい、雪が融けるように消え去ったという。
つまり、愛した者が自分の正体に気付いたと同時に自分が消えなければいけないという俺と同じ……いや、真反対の呪い。
俺は、雪女が俺に呼び寄せられたという事象は単なる偶然やサトリにお膳立てされた出会いではなく、運命によってきめられていたものだと確信する。
やっぱり、俺は『運命』というものが大嫌いだ。
運ばれた命は、唯々諾々とそれに従わざるを得ない。途轍もない拘束力をもってして、存在を雁字搦めにするそれは、俺には悪魔のように見えた。
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