39:これまでと愛
動悸が、激しくなっていく。雪女の言葉を飲み込むのに数秒間時間を要した。サトリとの初邂逅以来の、怒涛の展開。
すねこに名付けした時とは訳が違う。それを理解出来ない程愚か者ではない。
俺は、まるで彼女の冷気に凍てつかされたようにその場から指一本動かせなかった。
「わたしは、愛を乞う者に呼ばれる。わたしを呼んだのは、貴方。だから」
「愛を、乞う……?」
掠れた声が、喉の奥で引っかかる。
雪女の問いは、静かに夜気へ溶けていった。けれど、俺の胸の底にだけは硬く沈んで、どれだけ息を吸っても押し返せない。
無意識的に、俺は愛を求めていた。
その事実を突きつけられた途端、俺の中で嫌な歯車が音もなく噛み合ってしまった。
酒の熱が、どんどんと冷えていく。
「最初の出会いは、ただ単純に懐かしく温かいだけだと思った。すねこすりの知識は、母からの愛だった。」
「――」
雪女は、俺の言葉を黙って聞いていた。
「次の出会いは、理解だった。俺と泥田坊に価値を見出せたのは、彼女と共に学んだ知識があったからだった。」
「――」
サトリと酒吞童子は変わらず酒と共に俺を見守っている。
「三回目の出会いは、記憶だった。朧げの記憶にも魂は宿る、河童と座敷童が父の言葉を思い出させてくれた」
言葉にしていくうちに、俺の口から滑り落ちた事実が、ひとつひとつ組み上がっていく。
「そう、それで」
雪女が口を開く。迷い子に優しく手を差し伸べるように。
「そのどれもが、俺が癒されるために準備されていた。……立ち止まることを許し、意味を解らせて、忘れていた過去を認知させ……」
「そう、それが愛。貴方はここでそれを求めて来た。だから、わたしが……来たの」
雪女が来た理由も、名付けを俺に求める理由も理解できた。
俺が起爆剤だったわけだ。
酒吞童子というエンジンを使い、俺は感情を発露させた。ここにきて一番ってぐらいに俺の中を曝け出した。
その結果、雪女はそれを見つけ顕現した。
俺は、またひとつ、罪を重ねてしまったのだ。
何が俺はもう欲してはいけない。だ。この場にいる誰よりも貪欲に許しを、愛を求めていたではないか。
「ふぅ……雪見酒も、中々乙なモンやねえ。で?どうなん?名前は」
「酒吞童子、アンタ雪女と知り合いなのか?」
苦し紛れの時間稼ぎのため、酒吞童子に話題を振る。みえみえの逃げの一手、酒吞童子は知ってか知らずかぱきりと答えた。
「昔、一度だけ同じ山で呑んだことがあるだけや。まあ、ええ酒やなかったなあ」
「山を棲み処にする者同士ですからね、貴方方が顔見知りなのは初めて知りましたよ」
「我も雪女も、そないに麓へ下りる性格してへんからなあ、無理もないわ」
時間稼ぎもままならず、再び沈黙が重くその場にのしかかる。
「……悪い。」
何とか絞り出した声は、風に飛ばされるほど弱く頼りないものだった。
「俺は、アンタに名前を付けるなんて大それた事は、出来ない。少なくとも……今は未だ」
雪女は、俺の女々しい回答を静かに受け止めた。
ただ、睫毛を伏せて小さく頷く。その仕草があまりにも静かで、かえって胸が軋んだ。拒まれるより、受け入れられる方が痛い時もあるのだと、三年ぶりに思い出した。
見栄を張ろうと思えば、出来た。強い男を装い俺に任せろと、俺が『隙』を埋めてやると、虚勢を張ることは出来たはずだ。
それをしなかったのは、俺の中の彼女が、首を横に振ったからだ。せめてもの、俺の誠意。
胸ポケットの万年筆の重さが、ぐんと増した様な錯覚を覚える。
「酒吞童子、わたしにお酒をもらえるかしら」
「んぅ?気ぃ変わったん?ええで、酒の席は人が多ければ多いほど愉しいもんやし。そこの樽から好きなだけ吞みぃや」
「ありがとう、じゃあ失礼……するわね」
そう言って対面に座る雪女。
静謐な仕草、音が止む。
焚火が跳ねる音、風が耳を撫でる音のみがこの場を支配した。
「ねえ。愛しい貴方、悠弥」
霙のように緩やかな雪女の言葉が静寂の中に投げられる。
ごくりと、喉を鳴らした。
俺の事を呼び捨てにしてくるのは、親族を除きひとりだけ。
似ても似つかない容姿なのに、俺は一瞬――雪女と彼女の幻影を見た。
声の質でも、顔でもない。
ただ、俺を真っ直ぐに見つめるその目が、あいつと同じだった。
「わたしが『愛しに来た』と言ったことは、怖いかしら」
酒の助力もあって、何とか震える口で答えを紡ぐ。
短い、細い答え。
「あぁ。……怖い」
怖い。
何が。
名付ける事がではない。
愛することではない。
「愛されることが……とてつもなく……恐ろしい」
言葉にして初めて向き合う。
俺の、俺の中の彼女の幻影。
その影は朧気で、ずっと俺を見つめている。
「俺には、その資格が……ない」
愛されることで、期待されることで、俺は肯定されてしまう。
肯定されてしまうと、俺はそれを必ず最悪の形で裏切る。
三年前の、あの朱色に染まる路面。あの惨状を招いたように――。
愛に応えた瞬間、俺という器を通った愛は形を歪めて、相手に災いとして降りかかってしまう。
そしてその理由を、彼女の死に紐づけて俺自身を縛る。この上なく、恥知らずの他責行為。自らを戒めている風を装い、その実自分が傷つくことを恐れている俺は、俺が大嫌いだ。
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