38:早雪と名付け
仄かに温かい気温が一変し、肌寒さが肌を刺す。
星空に薄いベールがかかったように景色が変わる。
客人と言いながら、酒吞童子の表情はあまり芳しくない様子だ。
「まあ、守坊の様子みとったらあの娘が来るんも納得やわ」
「えぇ、そうですね。念のために上着を持ってきておいて正解でした。悠弥さん、こちらを」
そう言って薄手の上着を差し出してくるサトリ。食事だけに飽き足らずこの客人とやらも予見して準備していたのか。
寒空の下、冷たい風とともに現れる妖怪。
酒に鈍った脳で俺は必死に記憶をたどる。
俺の記憶が蘇るより早く、白はそこに現れた。
薄闇の中に佇む人の形の純白は、こちらを見つけて近づいてくる。
「おこしやす、自分も酒ぇ呑みに来はったん?えらい久しぶりやけど」
酒吞童子の問いには、真一文字に閉じた口を開かずに首を横に振ってこたえる女性。
「雪女さん、やはり悠弥さんに用向きがあるのですか」
「サトリ。――そう、わたしが遥々来たのはこの子が理由」
雪女。そう呼ばれた白い和装の彼女は、俺の顔をじっと見つめてきた。
「わたしの事を、知っているかしら?」
「し、っている。そこにいる酒吞童子と同じ程現代日本では広く知られているよ、アンタは」
サトリから渡された上着を羽織りながら、俺は彼女の問いに答える。それを聞いて、雪女は微笑んだ。全体的に色素が薄く、腰まである黒髪だけが風に揺られて淡い月あかりを反射していた。
その雪女の氷像のような瞳が、俺を貫く。
「俺に用って、なんだよ」
「分からない?」
雪女とは、悲恋の象徴とも言われるし、人を襲う怪異としても語られる二面性が有名だ。愛したものを氷漬けにして保管するような狂気をみせながら、同時に一人の男性に尽くす愛情も綴られる。
酒吞童子が笑みを消した相手。
ただ者ではないはずだ。凍らせに来た――それ以外に、こんな男に用があるとは思えない。
「俺は、死ぬわけには、いかない。まだ果たせていない約束がある。しかも最近増えたばっかりだ。もし、俺を凍らせに来たのなら、全力で逃走させてもらう」
「かかっ!ええなあ、流石我の脅しにも屈さへんかった男や」
俺の虚勢交じりの啖呵を聞いて、雪女は悲しそうな表情を見せる。
「なんだよ、無口な奴だな。酒吞童子の酒を呑みに来たわけでもない。俺を裁くつもりもないらしい。じゃあ……一体、何が目的なんだ、アンタは」
しびれを切らした俺が直接問う。
いつもなら、もっと思考を巡らせて相手の感情や行動原理を推察するが酒にやられている状態ではそれもまともに叶わない。故に、これが次善の策だ。
「愛する、為に」
「は?」
何を言っているのだこの美人は、愛だと?それがどのような経緯を辿りここへ来る理由に繋がるというのだろうか。
数秒間をおいて、俺は先ほどの酒吞童子とサトリの言動を思い出し結論に至る。
俺の様子から雪女が来ることを予見していて、自明の理であったらしいではないか。
そして、酒呑童子が見た俺の様子とは、自ら歪んだ呪いを愛と呼称して醜く縋っている男の事だ。
つまり、間違っている愛を掲げている大馬鹿者の事だ。
そんな奴の前に現れる雪女とは、愛の何たるかを知る伝道師、という事か。
「貴方は、すごく、凍ってしまっているのね」
「なんだ、勝手に俺の感情を言語化しないでくれよ」
顔にかかる黒髪を青白い手で払い、たおやかな仕草で俺に告げる。
「わたしは、貴方を愛しに来たの」
風が止んだ。
焚き火の火の粉が、ひとつふたつと夜に昇っては消える。酒吞童子が、珍しく無言だった。サトリが、猪口を置く小さな音。
「……は?」
聞き違いかと思った。
「いや、待ってくれ。今なんつった」
先ほどの推論は、俺の中で結構いい線言っていると思ったが、てんで的外れだったらしい。この俺を、愛するだと?
「くかかっ!面食いの雪女のお眼鏡に適うたらしいやん、よかったなあ守坊」
「いや、話が飛びすぎだろ。俺の脳みそが追いついてねぇんだが?」
「そうですね、流石の私もちょっと驚いてます。雪女さん、順を追って説明していただけますか?」
困惑するサトリと俺。相変わらずの姿勢で酒を豪快に吞んでいる酒吞童子。彼が作り出した幻想空間は、いつの間にか雪女の空間へと変質しようとしていた。
満天の星には灰色の雲がかかり、月あかりを遮っている。雪女の周りは一段と温度が低いらしく季節外れの早雪が舞っていた。
「ゆっくりで構いません。私達に……いいえ。悠弥さんに聞かせてあげてください」
「ゆうや……。悠弥と言うのね」
雪女に名前を呼ばれ、背筋にぞわりとした悪寒が走る。
酒吞童子とは異質の恐怖を、俺に齎した。
「そうだ。守屋悠弥という」
「いい、名前ね」
そういう雪女の顔は、ひどく哀しく見えた。
まるで、毎朝鏡越しに見ていた俺の顔。かけがえのないものを亡くしたものの表情に――そう見えた。
彼女も、すねこのように名前について『隙』を持つのか。
俺は、すねこ以来妖怪に名前を付ける行為は避けてきた。何故ならば俺が付けるまでもなく種族の名前が既に呪いとして機能していたり、酒吞童子のように意に介していなかったからだ。
言葉を持たないすねこすりのような存在故の『隙』だと思っていたが、雪女も同様のそれを持つのだろうか。
「わたしに、名前を、くれる?」
「な、まえ……?」
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