36:幻惑と真実
樽の酒をおよそ半分呑んだところで、俺は空を見上げる。広がる星の河と月が明るく俺達を照らしていた。
数分間、他愛もない世間話を繰り広げ時間を稼ぐ。この狭間にきてから、どんなことをしてきたのか。どんな妖怪と会ったのか。数週間に満たない短い時間で、俺は色々な出会いをしてきたのだと改めて実感する。
「あの泥人間、逝きはったんか。ええ往生できてようやなあ。」
「俺は満足してねえけどなあ。だってやっぱり見てほしかったぜ、幻覚じゃないあの黄金色の稲穂をよお」
「ど~でもええがな、自分がどう思てるか知らんけど、遠くない未来、あの泥はまた堆積して形を成す。ほいたらまた鍬握るやろ?そん時にまた見れるし、結局地が魅せてくれたんやろ?最期に」
桃を齧りながら、俺は答える。様々な考え方や容姿がある妖怪だが、一貫して過去と未来、つまり時間の連続性が薄いことは共通している。
「それに幻かて構わへんやろ、実際に見てるんやったらそれはもう現実と何ら変わらへん。これは現実、これは幻、なんてそんなん逐一判断しとったら疲れてしゃあないわ。自分の両の眼ぇで見たらそれは真実。それでええ」
「今の浮世には、幻術の類はついぞ見なくなりましたからね。悠弥さん達現代人たちには幻と現実の隔たりが我々より広いのでしょう」
幻が具現化したかのような存在が、俺に幻の何たるかを説いてくる。
「俺はそこまで達観できねえよ、やっぱり」
「せやろか。試してみぃひんとわからんで」
そう言うと、酒吞童子は指を鳴らした。
乾いた音がその場に響き、視界が揺らぐ。まるで、酩酊したかのようなふわふわとした感覚。確かに久しく飲んでいなかった酒だが、ここまで早く酔いが回ってきたというのか。
「我の酒を吞んだんやったら、我の幻を見せられる。この幻惑の中で、自分の思いの丈をぜぇ~~~んぶ曝け出してみいや。思いのまま、何にも縛られることなく、語ってみれば存外大したことなかったわ、なんちゅう事はザラにあるさかい」
空の色がより濃く変質していき、星の密度が増していく。星の河が、俺を明るく照らした。
「俺の、思い……」
「せや。さっきは我の昔話したからな。今度は自分の番や、我の肴に語っておくれやす」
「別に、面白いもんじゃねえぞ」
ドクン、と心臓が跳ねる。
俺にとって、それは最後まで隠し通すつもりだった感情。誰にも打ち明ける予定のなかった俺自身の呪い。
「私の力も使いましょうか、酒吞童子さんの酒の助力があればある程度私の観る透かした世界を具現化できるかと思いますが」
ここにきてサトリの驚きの能力が明らかになる、まさかそんなことが可能だとは思わなかった。しかし、俺はその提案を蹴る。
サトリのやつ、短い付き合いで俺がこう言われたら意固地になって自分から語りたがるのを理解してやがるな。
俺は、すこしにやついてサトリを見ると彼はゆっくりと瞬きをして御猪口でちびちびと酒を呑んでいた。
「俺の過去を語るとして、どこからどう語ればいいのか……」
「では私が問いましょう。先ほど酒吞童子が貴方を博識だと褒めたとき、あなたの脳裏には二人の女性が居たはずです、そのお二人の事からお聞きしましょうか」
「なんや、浮世に二人も女侍らせとったん。えらいモテてはるんやねえ」
すさまじい勘違いをされて、俺は慌てて否定する。
俺はそんなに愛多き人生を送っていない。
「違う違う、俺の中にいる二人ってのは母さんと彼女だよ」
「あらそうなん、でも伴侶は居ったんやね」
「まあ伴侶になる前、居なくなっちまったけどな」
改めて、彼女が居ないことを直視する。酒の熱がないと、体の芯から凍てつくような寒気が這い上がり、氷像のように強張って動けなくなる。
荒くなる呼吸を、酒で抑え込み俺は言葉を紡ぐ。
「ふられた……わけやなさそうやね。死んでもうたん?」
「敏いな、心を読む力があるわけでもあるまいに」
「心は読めへん、でも自分の眼ぇ見ればわかる」
酒吞童子は、月を見上げた。
雲ひとつない夜空。山の稜線は濃い藍色に沈み、その上を、白い天の川がゆるやかに渡っている。あまりにも綺麗で、現実味のない酒吞童子が広げる幻の景色が現実のそれに被さって、より美しさを強調させる。
俺はふいに胸元の万年筆に触れた。
「えらい大事そうに。それ、形見?」
「……なんで、そう思うんだ」
「そら自分の眼が語っとるからやん」
「別に、ただ愛用しているってだけだよ。仕事でな」
「わあ、嘘がお上手やわあ。我には到底真似できひん」
仕事で使っている。
それは本当だ。だけれども、それだけじゃないことを自分がいちばん知っていた。
酒吞童子は、追い詰めるような真似はしなかった。ただ瓢箪を傾けて、自分の盃へ酒を注ぎ足した。
「言いたないなら、それでもええ」
さらりとした言い方だった。
「無理に吐かせる趣味はあらへん。せやけどな、黙っとる限り、自分はずっと『もしも』の中やで」
「……」
「助けられたかもしれん。変えられたかもしれん。守れたかもしれん。そないなもん、死人にしか分からへんもんや」
胸を殴られたみたいだった。
三年間、俺が毎晩繰り返してきた問いを、この鬼はたったの一言で断ち切った。
どうしてこの鬼は、そんな言葉を平然と口にできるのだろう。
「それに、案外吐いた方が楽になるっちゅうこともあるで。酔い覚ましにもなるしな」
「ふ、結局は酒の話なのかよ」
「そらそうや、我の口から出てくるんは酒気だけやもん」
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