32:門答と湯
酒吞童子は、しばらく俺を見下ろしていた。笑みが消えた顔は、ただ静かで――静かな分だけ、無音が骨の髄まで響きわたる。
「……ふぅん。逃げへんのやね」
「逃げたら、ここまで来た意味がない」
そう言った途端、鬼はふっと口角を上げた。さっきまでの柔らかい笑いとは違う。獲物の腹を割く前の、刃物みたいな笑いだ。
「く。くくく。くかかかかっ!!ええぞ、その胆力。我の記憶にある人間は皆その瞳を持っとった。さあそうと決まれば宴を開こやないか、なんぞ持ってきたかえ?肴はあればあるほどええからな」
豪快に笑う酒吞童子は、徐に起き上がり俺を見下ろした。俺の頭ひとつ……いやふたつ分は大きい身長。いざ面と向かって対峙すると、圧迫感が俺を押しつぶしてくるようだ。
しかし、俺は賭けに勝った。
正解だったのだ。
すらっとした手足が俺の身体に巻き付いてくる。まるで蛇に絡まれているような錯覚を覚えた。
「そう言ってくれると思っておりましたよ、酒吞童子さん。おつまみはこちらに、私が作った煮干しと鮭とばです。たんと持ってきましたのでどうぞお召し上がりください」
「ほう、その腰巻になにをいれとるんか思うたら、そないなもん持っとったんかいな。ほんなら我も極上の酒ェ出さんと噓やなあ。えぇっと……あの樽ぅ……どこやったかなあ」
そう言いながら奥の部屋の方へと向かっていく酒吞童子。どうやら、巧く事は運んだらしいがサトリの読み通り、俺達に酒をくれてやってはい終わり。とはならないか。
まあいい。快晴の今日も昨日と同じく夜空には星が綺麗に河を成すだろう。月見酒、それも極上のモノという。嫌な理由から飲むようになった酒だが、好きなモノであることには変わりない。酒好きにとって、この上ない宴日和だろう。
「あったあった。ええっと、自分なんて言うん?」
「あぁ、守屋だ。守屋悠弥。好きに呼んでくれ」
「もりや……ゆうや……。守る母屋……ほんなら守坊、こっちきい」
なんとも珍妙な呼び名で呼ばれて面映ゆいが、まあいいだろう。俺は酒吞童子のもとに駆け寄った。
「自分……酒、強いん?我のはみぃんなごっつい強いで。試しにほれ、嗅いでみい」
奥から彼が持ってきた酒樽の中には、色こそ透明だがかなり酒の匂いの強いものがなみなみと入っていた。手で扇ぐまでもなく独特のアルコールの匂いが鼻腔を満たす。ただの酒じゃない。甘く、それでいて脳の芯を直接痺れさせるような、むせ返るほど濃厚な芳醇な香りがした。
「そこまで強いというわけではないが、こんな美味そうな酒を目の前に手ぶらで帰る程人間できてねえ。是非貰いたいね」
「くか。えらい正直者なんやなあ。ええで、この樽そのままやるわ。今宵はええ月がでるやろから、表出て月見酒やな。後は肴が足らんなあ、ちょ~待っときぃや。そこらへんに桃が生っとるさかいに、採ってくるわ。」
そう言うが早いか、酒吞童子は山を駆け下りていく。ここまで結構時間をかけて登って来たんだが、圧倒的フィジカル差を見せつけられたな。
というより、鬼の首魁が桃とは。何とも皮肉なことだ。
「行っちまったな。なんだか掴みどころのないというか、妙な性格をしてやがる」
「ええ、奔放。彼を表すのならこれほど似合う言葉はないでしょう。私は少し奥に行っていますので、何かあれば言ってください」
「はいよ」
茜色に染まる空から、太陽が姿を隠そうとする時間。山の頂上から見下ろす緑と夕暮れの茜色が綺麗に混じり合って一枚の絵画のようだ。
俺が景色を楽しんでいると、少し経った後に酒吞童子が戻ってきた。小脇には沢山の桃を抱えている。見るだに瑞々しく美味しそうな桃だ。
「ふぅ。待たせたなぁ。ようけ生ってたさかい時間かかってもうた。おかげでぎょうさん採れたけどな」
目を細めて採ってきた桃を見せつけてくる酒吞童子。本当に見目麗しいなこの人、もとい鬼。
「では、悠弥さん。少々歩きましょうか」
「ん?宴じゃないのか」
奥から戻ってきたサトリからの提案に俺は首を傾げた。
こちらが持ってきたつまみと、酒吞童子側で用意してくれた桃が揃ったのでいよいよもって開宴かと思っていたのだが、どこかへ向かうらしい。
こんな山頂の土地になにかあるとでもいうのか。
「汗を流しましょう。あちらの方に小屋がありまして簡易的なものですがお風呂を用意しております。私が準備を整えてますので」
「そりゃあいい。ワイシャツがすこしべたついて気持ち悪かったんだ。極上の景色、極上の酒。それらに対して俺が最上になっていなかったからな。ありがてえ」
まさかここで風呂に入れると思っていなかった。汗だけじゃなく土埃などがどうしてもついていたので丁度よい。奥で何をしているのかと思ったら、風呂を沸かしていたのか。用意周到な奴。
「ああ。アレか。ええで入ってきぃ。我勝手に飲んどくさかい」
「そこで待ってるとかじゃないのは、アンタのキャラらしいぜ」
「なんやそら。鬼が酒ぇ目の前にして我慢なぞきくかいな。ほれ、さっさとせんかったら我ひとりでぜえんぶ飲み干してまうで。せっかちやからなあ」
酒吞童子に急かされて、俺達は山の奥へと進んでいく。そこには、木造の小屋が立ててありその中にごく簡易的な風呂場が設営されていた。
「どうですか、お湯加減は。」
「素晴しいの一言に尽きる。疲れが溶けて消えていくようだよ」
小屋の窓からのぞく山々を見つめて、俺は息を吐いた。
湯気に交じってため息が溶けていく。
今夜、この極上の酒を飲みながら、俺は何を思い出すのだろうか。
それが少しだけ、ほんの少しだけ怖かった。
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