30:日常と酒
座敷童の家の一幕から数日。俺は何もない狭間での暮らしを満喫していた。もうすっかり、体の疲労は取れたように思える。
朝は鳥のさえずりを聞きながら起き上がり、気の向くままフィールドワークがてら散歩や帰り道のヒント探し。夕暮れにはヒグラシやカラスの声を聴きながら夕食を平らげ蛙の合唱に耳たぶを叩かれながら湯船につかり、床に就く。
そんな穏やかな日々の中、昨日はサトリの家にあったへちまのスポンジやムクロジの洗剤を作ったという妖怪へ会いに行ってきた。
その名を『ぬらりひょん』。
言わずと知れた妖怪の総大将と伝えらる爺なのでかなり身構えていたのだが、実はそれは間違いらしく非常に物腰の軟らかい好々爺だった。
着物の裾から煙草を取り出してぷかぷかと煙を吐いていた姿は、頭がデカい事を除けば単なるおじいさんだ。
曰く、妖怪の中でもかなりの長生きなので、顔が広い事を拡大解釈されているんじゃないかというのが彼自身の推測。
泥田坊の時とは違い、現代の解釈がそこまで存在を縛らないこともあるらしい。座敷童の例もあるし、人それぞれに悩みがある様に妖怪にもそれぞれあるんだな。
お土産にもらった手作りの煙草をふかしながら、俺は月夜を見上げる。煙草を吸うのは大学生の時、調子に乗っていた時期以来だ。貰い物故折角だからとお試し気分で一口吸ってみたが、案外咽ることなく吸えた。
煙が天に昇っていき、消えていく。
相変わらず美しい満天の星。記憶にある現実世界の星空よりも色が濃く、より美しい。
見る人の心を奪うミルキーウェイと月。
はやり、こんな空を見上げていると……酒を飲みたくなってしまう。
「前にも、そう言っていましたね。お好きなのですか?」
キッチンで明日の食材の下ごしらえをしていたサトリが、話しかけてきた。
「いや……まあ好きなのは間違いないんだが……、今酒が欲しいのは何というか別の理由さ」
今酒を欲している理由は、気を紛らわせるため。綺麗な星をみあげるのは、素面だと変な気持ちになる。
「……成程。では明日は少し遠出して、以前言っていた山に酒をもらいに行きましょうか」
少しの沈黙。
俺の心を透かして、深入りしないサトリ。
「あぁ、そうしよう。山に酒というと……大江山の鬼か?」
「御明察。酒吞童子の名は今現代もなお広く知られているようだ」
昨日会ったぬらりひょんに負けず劣らずの知名度を誇る日本三大妖怪の一角、大江山の鬼大将、人とは相容れぬ悪しき化生と語られる存在だ。
一説によれば神様の子であるという。そんな存在に会えるという事実に俺は少しばかり興奮すると同時に恐怖していた。
絶対的な『悪』。泥田坊のような害意ではない、悪意。それが待ち構えているのではないか。
「心配性なのは、貴方の理性的な所からくるものでしょうか。しかし恐れすぎは良くない、それでは次第に動けなくなってしまう。自ら立ち止まるのと、動けずに静止するのでは全く違う結果を齎します。」
「……言うじゃねえかよ。解ってる、つもりなんだがな」
俺はいつだってそうだ、だからこそ一度立ち止まってしまったらもう一度走り出す為のエンジンがいる。すねこに立ち止まらせてもらったが、もう一度走る為、帰る為のエンジンは俺自身が見つけないといけないだろうな。
「さあ、となれば明日は早い。もう寝ましょうか」
煙草の火を消して俺は寝室に向かった。
「そうだな。布団は俺が敷くよ、待っててくれ」
押し入れから布団を取り出して、畳に広げる。
「ありがとうございます、では灯りを消しますので、少し早いですが寝ましょう。」
「あぁ、おやすみ。」
布団にもぐり、目を瞑る。
早々に床に就いたのは明日が早い以外にも、嫌なことを思い出したくなかったから。
そんなときはもう寝ちまうに限る。
いろいろな蟲の声を聴きながら柔らかな枕に顔を埋める。昼間に天日干ししていた為優しい陽の匂いが鼻腔に広がり、身体の力が抜けていくのを感じた。
徐々に意識が微睡みに沈んでいく。明日や他の事はもう、明日考えよう。
*
「さて、今日は昨夜言っていたように少し遠出となります。恐らくは泊りがけになるかと思われますので準備を怠らず」
「なんと、そこまで遠いのか?」
朝食のシャケをつついていると、サトリが口を開いた。
座敷童の家に向かう時もそこそこ歩いたが、それ以上になるのか。山登りの経験などほぼ無いから、気を引き締めていかねばならんかな。
「そこまで険しい山道というわけではありませんが、いかんせん距離があるのと――恐らくそこの家主が易々と帰してくれるとは思えませんので」
「家主と言うと……酒吞童子のことか」
「えぇ。きっと彼はまあしつこく貴方を呼び止めるでしょう。彼も根は妖怪、寂しがりですから」
苛烈な性格をイメージしていたのだが、そんな想像とは違う像を言われて少し戸惑う。酒吞童子と言えば数々の鬼を従える鬼の棟梁、人類にだまし討ちされた怪物だ。
そんな奴と人間の俺があって問題ないのかね。
「大丈夫ですよ。彼は鏡のようなお方ですから、座敷童のようにちゃんと目を見て会話をしていただければ」
「そうかい、じゃあ俺の得意分野ってわけだ」
「それに、私お手製のおつまみも持っていきますのでご機嫌は取れるかと」
台所の方を指さして微笑むサトリに、口角が上がる。
「そりゃ頼もしい、頼んだぜ鬼の胃袋掴んだれ」
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