18:残響と夜更け
風が止むまで数秒。そのたった数秒で周りの空気がガラッと変わる。いや、正確には戻る。初夏……梅雨入り前の湿り気を持ったじんわりとした熱が身を包み、あの黄金色の景色は完全に消え去ったと嫌でも意識させた。
「消えちまうのなんて……想定してるかよ」
「すみません、言っておくべきでしたかね。我々妖怪は生命力ともいえる力をすべて使いきると消滅してしまうのです。故に土地に全ての力を明け渡した泥田坊は消えてしまった。しかし、彼も言っていたようにそれは死滅するわけでなく、一時的な休止状態のようなもの。いづれの世界で彼はまた鍬を持ちに現れるでしょう」
残酷な事実を告げられて、俺は項垂れた。
妖怪と人間という圧倒的な考え方の違いに、俺は言い返すことができなかった。
足元に転がる使い古された鍬を拾い上げて、胸中で手を合わせる。
「納得は出来てない。でも理解した、したよ。ったく勝手に消えやがってこんチキショー」
大部分が錆びてしまっているそれは、とても重い。経た年月と努力の結晶だけが寂れた農地に残った。
「帰りましょうか」
「あぁ、そうだな」
俺は元の世界に帰るまで、足繫くここへ通うだろう。
泥田坊の『無意味』を肯定するために。
*
森を抜けてもうすぐサトリの小屋へとたどり着く。会話はすくなく、木々が揺れる音とヒグラシの声だけが俺の耳に響いていた。
だけれど、この沈黙は悪くない。
静かだけど居心地のよい静寂に包まれて、蘇芳色に染まる空を見上げた。
「やはり、私の見立て通りにまたひとつ……『隙』を埋めていただきましたね。貴方の『隙』を埋めて帰る為にと言っていたのに……これでは足を向けて眠れません」
「気にすんない、ここにいる間衣食住の全てをアンタに頼ってんだ。当然のギブアンドテイクだよ」
何度も頭を下げてくるサトリに、これ以上は止めろとくぎを刺して俺は歩みを進める。今回、確かにサトリから依頼を受けて泥田坊と相対したわけだが、俺にとっても素晴らしい体験ができた。
サトリが昨日の朝言っていた通り、俺と泥田坊は同一の性質をもつ。だからこそ、彼を救うことで俺も救われたのだ。
俺の思い描いた大団円とは違ったが、俺も彼の意思を見て違う終わりを認められた。
俺の本心に蓋をして、ただ逃げて逃げてを繰り返した結果辿り着いた仕事だったので、俺は俺の仕事が大嫌いだった。その無価値なものが泥田坊を救う一助となったことは、ことのほか俺の心を癒している。
自分を認めてやるってのは、案外重要なのかもしれない。
「そうですね、己を愛してやらぬ者に、他の者を愛することは出来ませんから」
「なんかの歌詞みたいなクサイ台詞よくこともなげに言えるよな、この優男め」
「誉めてます?」
「あぁ、大絶賛」
軽口を転がして、俺は笑う。
まあこんな終わりがあってもいいだろう。多様性って奴だ。
小屋に戻り、靴を脱いで居間へ寝転ぶ。まさか俺自身が泥まみれになるとは思ってもみなかった。「先に手を洗ってきますよ」とサトリが台所へ向かう間、俺は今日一日を振り返っていた。
いつ振りかという肉体労働に、体が悲鳴を上げそうだ。
明日の筋肉痛が今から怖いぜ。
「お風呂を沸かしますのでその間にご飯を食べましょう、今日は朝のうちに作り置きをしておいたのです」
「おぉ、そうか。いつもはカラスの行水だが、今日ばかしはたっぷりと肩までつかりたいからな~。そうじゃないとどっかの誰かさんみたいな頑固な疲れは取れそうにない」
「はは。そうですね、泥と一緒にちゃんと清めてやりましょう」
今日の飯は鱈の煮つけだ。優しい味が口内いっぱいに広がり、旨味が俺の中に満ちる。栄養を取ることを目的とした質素な食事や、ストレス発散のための暴食ではない疲れを癒すための食事。なんとも素晴らしい。
「相変わらず美味いな、この飯にありつけただけでもこんな辺鄙な所に迷い込んだ甲斐があるってもんだ」
「そう言ってもらえると、何とも面映ゆいですね」
気恥ずかしさからか少し視線をそらして頭を掻くサトリ。
事実なのだから、素直に受け取ればいいものを。
「――もうお風呂が沸くはずです。冷めるといけませんから早く食べましょう」
「やーい、照れてやんの。心を読む妖怪のくせに、自分の心を隠すのはへったくそなんだなあ、アンタ」
サトリをひとしきり揶揄った後、俺は湯船につかる。体の奥に堆積した泥のような疲れが汚れと共に溶けていく。
「結局、見せられねえのは変わんねえもんなァ……」
俺の呟きが湯気に紛れて消えていく。
納得はした。俺がうだうだ言っていても変わらないことも理解した。
しかし、それでも心残りはある。
なぜなら、いづれ泥田坊が再びあの地を訪れた時、俺はその場にいないだろうから。
俺はここから浮世に変えるため行動している。どれ程かかるかわからないが、サトリの口ぶりからしてそこまで長い期間ではないだろう。
だから稲穂が頭を垂れる時、俺は存在しないことになる。
なんとも、なんとも。
「ままならんものよの……」
じんわりと体の芯から温まり、瞼が重くなってくる。いい歳して風呂場で寝落ちするわけ行かないので、早々に脱衣所に向かった。
*
縁側で火照った体を冷ましつつ、茶を啜る。若干の湿り気を持った夜風が体を包み込む。
使い古された鍬を眺めていた。
「サトリ、この鍬だが納屋にでも仕舞っておいてくれ」
「えぇ、勿論……おや?」
手渡した鍬を見て、サトリは目を細めた。
「ま、ちょいとやりたかったことだったんでな。一筆添えておいた」
鍬の柄に、幸運をと掘っておいた。それだけじゃない、俺が記した土地の評価書をひもで括ってある。奴がこれを見る時、俺の存在が少しでも残る様にと考えた結果これがいいと思った。
「実に、実に好い言伝を頼まれてしまいましたね。しかと受け取りました。このサトリの名に誓いましょう」
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