ラリュング・シティ
「地図が正しければ、ここがあの有名なトラファルガー広場だけど。ほら、あっちがチャリング・クロス」
クリスはスマートフォンを見つめながら言うが、その情報はまったく正しくなかった。
環状交差点を抜けた先でハーレーを停めると、鉄腕=アンナはあたりを見回した。
たしかに地下鉄駅はあった。しかし、そこには「チャリング・クロス」とはなく、「キリング・クロス」と案内表示が出ているではないか。なにかがおかしい。ロンドンのようでいて、ここはロンドンではない。まるでパラレルワールドのようだ。遠くにはロンドン・アイらしき巨大な観覧車も見えるが、それもどこか違和感を覚えさせた。
「アタマが痛くなってきた。いったいここはどこなんだ?」
「ロンドン。たぶん」
「でも違うんだろ?」
クリスはコクリとうなずく。先が思いやられてきた。
「ねえ。そんなことより、おなか空いたんだけど」
「そりゃアタシのセリフだ。クリスおまえ、さっきまであんなに食ってたじゃないか」
「お菓子は別腹だよ。いいかげんおなかが空いた」
「そうなりゃ、情報集めに飯を食いにいくしかねえ」
「行くって、どこに?」
「地元のバーに決まってる。もしここがロンドンだってなら、いいパブがあるはずだぜ」
そう言うと、鉄腕は再びハーレーを走らせた。
五分ほど走ったところで、いいパブを見つけた。路肩の停車場に停めたら、さっそく店内へ。さすがはロンドンというべきか――そうではないかもしれないが――店内にはオールディーズなブリティッシュ・ロックらしき音楽が流れていた。
その店はアーロンと言った。馬蹄型のカウンターに、まるでプレスリーのようなたくましいモミアゲを持つマスター。そして品のいいスーツ姿の客たち。
カウンターの端に二人で陣取ると、鉄腕はメニューを見やった。ウィスキーのページからバーボンを探そうとしたが、しかしジム・ビームもワイルドターキーも、アーリータイムズすらもない。見たこともない銘柄ばかりだ。
しかたなくミーヴァス十二年というブレンデッド・ウィスキーと、パブフードっぽくカッテージパイを注文。肉とジャガイモにグレイヴィーたっぷりのパイが届くと、クリスは一心不乱に食べ始めた。
そんな相棒を横目に、鉄腕はコートからいつもの葉巻を取り出した。ヘンリエッタ・Y・チャールズ、一本二十七ドルの高級葉巻。文明の証だ。シガーマッチでやさしく火を灯すと、鉄腕は芳香を鼻奥で感じ取った。それから続いて、ミーヴァス十二年をストレートで、咀嚼するように飲んだ。ヘーゼルナッツのような甘い香りと、ピートのスモーキーさの効いた名品だった。
「初めてのお客様ですか?」
スッと灰皿を差し出しながら、マスターが言った。
「ああ。この店も、この街もな」
鉄腕がそう言うと、マスターの表情はとたんにこわばった。まるで幽霊でも見たかのような、目の前のモノを信じられないときの瞳だった。
「ラリュングが初めて、と?」
「ラリュング? なんだいそりゃ?」
「ラリュング・シティ。この街のことですよ。……もしかして、旅のお方ですか?」
「旅? うーん。まあ、旅っちゃあ旅だか……まあ、一応は仕事で来たんだ」
と、横目にクリスを見る。どうやら今のクリスには、目の前のカッテージパイしか見えていないようだ。
「お仕事ですか? ちなみにどんなお仕事で?」
「なぁに、しがない便利屋家業。アタシは――」
鉄腕、アンナ・マイヤー。そう名乗ろうとして、彼女はためらった。ここはオールド・ハイトではない。それどころか、どこかもわからない。ロンドンらしき謎の場所。マスターは気さくそうに見えたが、しかしそれでも直感が鉄腕に警告した。なにかがおかしい、と。
「……そうだな。探偵みたいなもんだよ」
「探偵ですか。そういえば、私の知人にもあなたのような女性の探偵がいらっしゃいまして。ほら、あなたのように片手だけ手袋をつけている?」
「片手だけ手袋をした女探偵? へえ、どこの街にも変なヤツはいるもんだ。……で、そんなことよりマスター。もう少しそのラリュング・シティとやらについて教えてもらえないかね?」
「ええ、かまいませんが……」
*
霧に囲われた街、ラリュング・シティ。
そこは、第三次世界大戦の後に誕生した難民たちの街である。すでに一世紀以上前の大戦では、無人殺戮兵器――通称、《フォグ》が無尽蔵に生産されたという。しかしそれは人々に災厄をもたらした。大戦が終結してもなお、フォグは刷り込まれた殺人本能に従い、殺戮の限りを尽くしたのだという。それにより、人々は逃げることを余儀なくされた。暴走した機械たちから逃れることを迫られたのだ。
そんな無人兵器が闊歩する世界で、この都市、ラリュングは唯一の楽園だという。
いわく、大戦の遺物である無人兵器たちは、なぜかラリュングを囲う霧の中には入ってこれないらしい。むろん例外は存在するが、しかしそれでも難民たちは安全を求め、こぞってこのラリュングに入り込んだ。それがおよそ五十年前のこと。いまでは難民の街は、一個の都市として機能を始めている……。
マスターはそう語ったが、しかし鉄腕が信じられなかった。なぜなら、ここがまるでロンドンのようだからだ。
マスターからの歴史講座を履修したところで、鉄腕はようやくウィスキーを飲み終えた。そして同じころにクリスもカッテージパイをたいらげた。
「なあ、マスター。アタシもよもやこの質問を生きてるうちにするとは思わなかったんだが……いまは西暦何年だ?」
「西暦? えーっと……今年で何年でしたか。二〇八六年でしょうか?」
「八五年だよ」
奥でスーツ姿の男性が言った。
鉄腕が脳裏で思い描いていた最悪のヴィジョンが、いま収束した。
「おいおい、嘘だろ。マジに言ってんのか? こんなことが起きるのはバック・トゥ・ザ・フューチャーのなかだけだと思ってたんだが」
「ハーレーがデロリアンになった覚えはないよ」
クリスが皿に残ったグレイヴィーを舐めながら言った。
――こいつはかなりマズいことになった。
ここはたしかにロンドンだ。でも、はるか未来の、だ。しかもディストピアを迎えたあとのロンドンと来た。デロリアンにもターディスにも乗った覚えはないが、間違いなくそうなのだ。信じられないが、そう考えるしかない。
鉄腕はみじろぎした。そして惜しむ気持ちをこらえ、灰皿に吸いさしの葉巻を押しつけてから立ち上がった。
「ちなみにマスター、ドルって知ってるか?」
「ドル? なんのことです?」
「あー、ならいいんだ。ちなみにお勘定は?」
「えーっと……二十一パウンドと五十ペンド」
――おいおい、パウンドはケーキとボクシングだけにしてくれ。
「クリス!」
鉄腕は相棒に目配せ。アイコンタクト。だが、彼女はまったく気づいていない。ドル紙幣をいくら払ったって、この未来のロンドンじゃ通用しないってことだ。
「逃げるぞ!」
直後、彼女はクリスの小さい体を持ち上げると、一目散に店を出ていった。赤い扉を蹴破って、外へ。マスターの怒声が聞こえたが、気にしている暇はなかった。
とっとと路肩に停めたハーレーに飛び乗ると、切符が切られているのも気にせず、エンジンスタート。夜のラリュング・シティをかっ飛ばした。