霧の向こう (2)
オールドハイト西区、ウェストエンド。中央区から外れた場所にあるそこは、郊外の住宅街にある小さな繁華街のような場所だった。しかし軒を連ねるバーでは、どこも閑古鳥が鳴いていた。風評被害というやつだろう。このんで失踪したがる者など、どこにもいはしない。
時刻は午後十時半すぎ。鉄腕=アンナ・マイヤーは、路肩に停車させたバイクからその様子を見ていた。彼女の愛車たるハーレー・ダヴィッドソンは、ファイヤパターンの模様があしらわれ、それはクリスが乗り込むサイドカーにも描かれていた。
「ヘンな霧なんてどこにもないじゃないか」
クリスはナチョチーズ味のスナックを食べながら言った。手はチーズ味の粉末でまっ黄色だ。
「まあ、いまは待つのが仕事さ。何も起こらなけりゃ、むしろ万々歳だろ? ロクに仕事をしなくてもカネが手に入るんだから」
暇つぶしに、と言わんばかりに彼女はコートの裏ポケットからシガレットケースを取り出す。
取り出したるヘンリエッタ・Y・チャールズ。シガーマッチでゆったりと火をつけ、濃厚な紫煙をくゆらせる。赤ワインとバラのような華やかな香り。その煙が虚空に滞留する。その一口は流れ行く時間を短く感じさせるほど甘美だ。
二口、三口と、鉄腕は薄霧模様の夜空に紫煙を吐き出す。そうして先細りしていくヘンリエッタの赤い火先を見つめていた、そのときだ。
――紫煙……いや、それだけじゃない。
たゆたう紫煙が、その色の濃さを増しはじめた。しかしよく見ればそれは、葉巻の副流煙でも、自分が吐き出した紫煙でもない。とっさに彼女は悟った。いま見ている煙は、葉巻のそれだけではないと。そしてそう感じ取った直後には、異変が起き始めた。
霧だ。紫煙の先で、霧が起き始めていた。マンホールから吹き上がる白い煙のような霞の群。大気を覆い隠さんと、白波のように襲いかかってくる。
「そーら、早速おいでなすったぜ! クリス、ヘルメットは?」
「したよ、とっくに」
エンジン始動。ドンッ、ドンッ、ドンッ……と、獣のうめき声のようなエキゾーストノートが響く。
そのとき、霧の向こうに影が見えた。巨人だ。全長一〇メートルはあろう巨大な影。影のみゆえに、詳細は分からない。だが、そいつは大きな足を振り上げながら、確かにこちらへと向かってきていた。ウワサどおりのデカブツ。それは突然に、霧の中からこの街路に姿を現したのだ!
「いったいどこからあんなバケモノが出てきたんだ? マジに『ミスト』とかやめてくれよ。アタシは自殺する気なんかサラサラないぜ」
「それは僕もだよ。早く出よう。倒せば済む話でしょ」
「その通りだ!」
アクセル全開。
ハーレーは大きくウィリーをしながら、霧の中に飛び込んだ。
妙だった。
その霧はオールドハイトには似つかわしくない、冷え切った、まるで機械のような霧だった。産業廃棄物だとか、すえた小便の臭いだとか、薬物中毒者の吐瀉物だとか、そんな感じもしない。ただ冷え切って、ジメジメして、鉄腕の頬を逆撫でした。
やがてその霧はアンナとクリス、二人が乗るハーレーを覆い尽くした。八方塞がりだ。右も左も、前も後ろも白く染め上げられた。有効視界は十メートル前後。ハーレーのライトで霧の中を照らせども、視野はまったく広がらない。ただ遠くに巨人の影らしきものが見えるだけだ。しかし、その巨人との相対距離もまったく縮まる気配がなかった。
「どうなってんだ、こいつは。前に進んでる気がしないぞ?」
「『隊長、あの木に見覚えがあります!』とか言い出さないでよ」
「そりゃ『ミスト』よりひでえ」
軽口をたたく余裕もだんだんなくなってくる。
エンジン全開でハーレーをぶっ飛ばしているが、周りに何かがある気配はない。声音も、エンジン音も何にも反響しない。街路にいたはずだというのに、まるで砂漠に放り出された気分だ。その証拠に、いくら加速しても、何にもぶつかったりはしない。まるでその場で停止し続けているような気さえするほどだ。
「これ、ホントに進んでるのか? どうなっちまってる?」
「わかんない。GPSもダメだ。ほら見て、ここ圏外みたい。どこに来たかもわかんないや」
サイドカーに乗るクリスは、菓子の油ベトベトのスマートフォンをつきだして見せた。画面には『圏外』の文字。電波塔のアイコンには罰印がしてあった。
「クソッ。それじゃあ今はアイツを追っかけるしかないか」
アイツ――とは、もちろんあの巨人だ。いくら進んでも、まったく追いつける気がしない、あの巨影。だが、道しるべはそれしかない。
そうと決まれば、鉄腕はただひたすらにアクセルを開け続けた。メーターは今までにない速度を示していた。
「前! 光だ!」
クリスがそう叫んだとき、霧の向こうから一条の光が見えた。
鉄腕もその光を見たが、しかし直後には消え去った。というのも、霧ごと消えてしまったからだ。
突然のホワイトアウトから、一瞬で視界が回復した。ハーレーは街路に飛び出す。思わずブレーキを踏みつけ、車体を横滑りさせながら急停車。時速二〇〇キロ近く出ていたハーレーは、何十メートルという制動距離を経てようやく停車した。壁際数センチ。タイヤが焦げ臭く、白煙を起こしている。
「おぉーっと、あぶねえ。あやうく派手にクラッシュするとこだった。F1ドライバーも真っ青だ」
ヘルメットをはずして、彼女は周囲を見回した。自慢の右手――鋼鉄製の義手で握り拳を作りながら。
だが、すぐに臨戦態勢も解いた。というのも、先ほどまで追っていたあの巨人がどこにも見あたらないからだ。あるのは雑に整地されただだっ広い空間。ほのかに霧をまとう大気と、人気のない倉庫街。一〇トントラックが四ブロックほど先を通っていったが、それ以外に人影は見あたらなかった。
「クリス、いったいここはどこだ? さすがにもう圏外ってことはないだろ?」
「うん、確かに圏外ではないんだけど……」
と、クリスはマップを表示した画面を神妙な面もちで見つめている。
「なんか、GPSが狂ってるみたい」
「どいうことだ?」
「ほら、これ」
突き出されたスマートフォンは、たしかにバリが三本立っている。バッテリーも十分。だが、GPSはおかしな反応を示していた。マップが示している二人の現在地。そこはどうやら、シティ・オブ・ロンドンだというのだ。
「ロンドンだって? ドーヴァー海峡をわたった覚えはないぞ」
「でもグーグル先生は、ここがロンドンのゾーン3だって」
「悪い冗談はよせよ。失踪者は、みんな気づいたらロンドンにいたなんて言わないだろうな?」
「さあ。でも、グーグル先生はここがロンドンだって言ってる」
「グーグル、グーグルってなぁ。失踪者の場所も、あの巨人の位置もグーグル先生に聞きたいぐらいだ」
再びヘルメットをかぶり、エンジンを噴かす。
「どこに行くの?」とクリス。
「決まってる。まずは情報集めだ。ここがロンドンだかどうだかは知らないが、どっちみちここにあのバケモノはいるはずさ。道案内は頼んだぜ」
「ここが本当にロンドンだといいけどね」
クリスはマップを開きながら嘆息する。
エンジンスタート、再びハーレーは走り出す。




