7
昨夜は眠れなかった。金曜日なので、仕事帰り、凰士の部屋で二人きりの時間を楽しんで、程よく身体は疲れているはずなのに。
泊まっていってと言われたが、凰士の寝顔なんて見ていたら、涙が零れそうな気がして、日付が変わる前に送ってもらった。きっと、これが最後の夜になると思う。
本当は今も泣きたいくらい、胸が痛い。凰士の事、好き。愛していると言えるかもしれない。
でも、恋人以上にはなれないんだよ、私達は。このまま一緒にいても未来はないの。仕方がないんだよね。自分に言い聞かせ、気持ちを奮い立たせる。
やっとベッドから抜け出し、一階に行く。遅い朝食を食べている家族の姿。いつもと変わらないのに、明日からはこんな光景も色褪せちゃうのかな?
「おはよう。」
「おはよう。」
挨拶して、いつもと変わらない食卓で吹雪の隣に座る。
「トースト、何枚?」
「いらない。」
「じゃあ、目玉焼きとスクランブルエッグ、どっちにする?」
「ごめん、どっちもいらない。コーヒーだけでいい。あっ、ミルクは入れてね。」
「何処か調子悪いのか?」
「ダイエットでもしている?」
お父さんと吹雪が心配顔。
「そう、ダイエット中。最近、太っちゃって。」
「凰士なら気にしないのに。」
余分な事を呟く吹雪を一睨み。
「ダイエットはいいけど、ちゃんと食べないと身体に毒よ。」
「はぁい。」
「本当にわかったのかしら?」
穏やかな笑いが起こる。
あぁ、やっぱり、家族っていいな。こんな事を思うのって、弱っている証拠?
午前十時の約束、十分前に着くのは、凰士らしい。
でも、今日で最後。
「おはよう。今日も一段と可愛いね。」
「おはよう。じゃあ、行ってきます。」
「あっ、待って。」
リビングでお母さんの声。そのすぐ後、こちらに走ってくるスリッパの音。
「凰士くん。」
「はい。」
「白雪ってば、ダイエットって言って、朝御飯食べなかったの。だから、昼食と夕食は食べるように、凰士くんが見張ってね。」
「わかりました。」
「もう、お母さん。そんな事、言わなくてもいいから。」
「だって、大切な事でしょう。」
「はい、はい。じゃあ、行ってきます。」
「行ってらっしゃい。凰士くん、白雪の事をお願いね。」
「はい、責任持って、お預かりします。」
「何よ、それ。保育所じゃないんだからね。」
玄関先にいると、お父さんまで出てきそうだし、長くなるからさっさと退散。
でも、二人きりになるのは、ちょっと辛いかな?
「さて、夕食まで何処に行こうか?」
「じゃあ、凰士の部屋でDVDでも見よう。見たいDVDがあるの。」
「てっきり出掛けるのかと思ったよ。だって、この間、服が欲しいって。」
確かに欲しい服があったよ。でも、今日は人混みを歩く気になれない。辛くなりそう。
「イヤなの?」
あぁ、可愛くないな。最後くらい、可愛い女でいるべきなのに。
「まさか。白雪と一緒なら何処へでも。」
行けないよ。終わりだもん。
意識しないと無口になってしまいそうで、沈黙になっても平気なように、ラジオの音量を少し上げる。
あぁ、胸が痛い。
「白雪?」
ぼんやり外を眺めていた私に、問いかける声。
小さく息を吐き出してから、ゆっくりと振り返る。
「何?」
「ぼんやりしてどうしたの?もしかして、調子が悪いの?」
「そんな事ないわよ。元気、元気。」
「でも・・・。」
「ラジオに聞き入っていただけ。ほら、この番組って、売れている曲を流すじゃない。今度、カラオケに行くために勉強中。」
「そっか。じゃあ、邪魔しちゃったね。」
「ううん、平気。」
上手く誤魔化せたよね?ねえ、凰士はいつもと変わらないね。私の考え過ぎなのかな?今日、何も起こらないって、安心してもいいのかな?
「話してもいいかな?」
「もちろんよ。」
「今日の夕食だけど、フレンチなんだ。夜景が綺麗で、美味しいと有名な所。一度、白雪と一緒に行きたくて、予約したんだよ。」
「ありがとう。楽しみにしていたのよ。そのために、ダイエットしていたくらいなんだからね。」
「足りなければ、帰りにラーメンだね。」
「リバウンドするでしょう。」
「確かに。それでね、車で二時間位掛かるんだ。だから、三時位に部屋を出よう。」
「うん。じゃあ、お昼は軽めに、サンドウィッチでも買いましょう。」
「そうだね。あと、お菓子とジュースも。」
「だから、それが太るのよ。」
いつもの私だよね?上手く動揺を隠せているよね?
「DVD、いつもの店でいい?」
「あっ、いい。凰士の部屋にあるDVDで見返したいのがあるの。」
「そっか。」
軽く微笑み、前に視線を向ける。いつものレンタルショップが通り過ぎていった。
これからは、一人でここに来るのかな?でも、多分、しばらくはムリだろうな。
「じゃあ、お昼、何処で仕入れる?」
「コンビニでいいわよ。」
「了解。」
凰士の部屋から一番近いコンビニに寄る。
凰士はサンドウィッチとお弁当、私はサンドウィッチを買い、店を出た。
ここも最後かもしれない。あぁ、嫌だな。私、何、感傷的になっているんだろう。私らしくもない。
今までだって、何人かの人と別れを経験しているじゃない。
修羅場だって乗り越えられるのに、こんなのおかしいよね。
「もうすぐ着くよ。」
「わかっているってば。」
上手に笑えているよね?
あっ、貰った合鍵、返さなきゃ。最後でいいよね?
この指輪はどうしたらいいんだろう?そんなに長い期間、身に着けていた訳でもないのに、やけに愛着がある。返されても困るだろうけど、私も持っていても困る。
普通、どうするんだろう?
「白雪?」
「うん?」
「指輪を見つめながら、溜息を零して、どうしたの?」
「綺麗だから見惚れていただけ。」
「そこまで気に入ってくれたんだね。プレゼントした甲斐があるよ。」
「本当にありがとうね。」
自分を追い込んでいる?逃げ場を塞いでいる気がするのは、気のせいだよね?
凰士の部屋に入ると、昨日と何も変わらない。相変わらず掃除が行き届いているし、凰士もそんなに散らかす方じゃない。
私を先に入れ、ドアと鍵を閉める凰士。振り向いた瞬間、凰士に抱きついた。
「白雪?」
動揺している声。
わかっているけど、私は腕の力を緩めるつもりはない。背中に回した力に余計力を籠めた。
「ねぇ、凰士。お願いがあるの。」
「何?」
私の背中に優しく腕を回し、抱き寄せる。
あぁ、凰士の薫り、いつも私を包み込んでくれたぬくもり、大好きなのに…。
「抱いて。」
消えそうな声でドアに声を吐き出す。
「えっ?」
「抱いて。」
さっきより少しだけ大きな声。でも、少しだけ掠れてしまう。
「急にどうしたの?」
「嫌ならいいのよ。無理強いは出来ないもの。ただ、凰士に抱かれたいだけなの。」
「そんな風に白雪に求められるのは、凄く嬉しいよ。嫌なはずがないだろう。俺の愛しい白雪のお願いなんだから。」
凰士のぬくもりに包まれながら、快楽を求めれば、余計な事を考えずに済む。それだけで全てを支配してくれる。
「その代わり、白雪から言い出したんだから、容赦しないよ。覚悟しておいてね。」
凰士が瞳を覗き込みながら、笑みを見せる。視線を逸らしながら、頷いた。
凰士に抱き上げられ、身体がベッドに沈む。凰士と私の薫りが染み付いたベッド。
でも、明日からは、凰士と他の女性のモノ。私がここで凰士と抱き合う事は、なくなる。
こんな答えしか、見出せないんだよね?
「白雪。」
愛しそうに私の髪を撫でる凰士。
私は無言のまま、凰士の胸に顔を埋めた。
「そろそろ用意しよう。」
「うん…。」
死刑台に上がる人はこんな気持ちなのだろうか?終わりがわかっているのに、逃げる事が出来ない。真っ直ぐ進むしか出来ない。逃げ出したい、どんなに望んでも叶わない。
「お風呂に入ろう。お湯を溜めてくるよ。」
「うん、ありがとう。」
凰士がお風呂場に向かう。私はその背中にそっと溜息を零した。
ベッドサイドのテーブルの時計は二時半近く。五時間もの間、凰士のぬくもりに包まれたのに、心が冷え切っている。
人のぬくもりって、温かいはずなのに。
「じゃあ、行こう。」
三時少し過ぎ、部屋を後にした。
凰士と二人きりの車の中。沈黙で息が詰まりそう。何か話題を探さなくちゃと思うけど、見つからない。何か話そう。何でもいい。沈黙よりずっといい。
「そう言えば、今日、吹雪、いなかったみたいだけど。」
「うん、明那と十時に待ち合わせだって、九時半頃出て行った。」
「あぁ、浅岡さんね。」
途端に不機嫌な声になる凰士。
「明那って、いつもあんな感じなの?」
やっと話題が見つかった。これでしばらく間が持つだろう。
「普段はあそこまで煩くない。多分、普段は普通の子だと思う。白雪に憧れるのは当たり前だと思うけど、彼女は行き過ぎだ。」
「でも、吹雪が選んだんだから、そんなにおかしな子じゃないよね。」
「おかしくないと思う。ただ、ナマ白雪を見て、興奮したんだろう。」
「それって、ちょっと複雑な言い草。」
「確かに、白雪の事を聞きたがったよ、前から。でも、まさか、あそこまで白雪にべたべたすると思わなかった。」
「そうかな?確かにウザイ所もあるけど、そんなにべたべたじゃないと思うよ。」
「白雪は甘い。」
凰士が怒りの一撃。
「同性だからって、甘く考えていると、取り返しのつかない事になるよ。」
「何?取り返しのつかない事って?」
「アヤシイ世界に取り込まれる。」
「私、そういう趣味ないから。」
「普通、そういう場合、愛する凰士がいるから、他の人とそうなるはずないとか、そう言ってくれるもんじゃないか?」
「はい、はい。」
でも、愛しているだけじゃ、どうにもならない事ってあるんだよ。
「白雪、本当に俺の事、愛しているよね?」
「確認しないとわからないの?」
「わかる。でも、白雪、普段、言ってくれないから。たまには、言って欲しいなって。」
「普段じゃない時っていつよ。」
言葉を声にしてから、失敗したと思ったが、もう遅い。
「ベッドの中。あんなに情熱的で、何度も愛していると言ってくれるのに、普段はクールなんだからさ。まぁ、そのギャップが堪らないんだけどね。」
こんな会話が心地良い。バカみたいな事で、盛り上がる。そう、これで沈黙は回避出来る。
それに、残された時間も少しだし、楽しみたい。いいよね?
「バカ凰士。」
「事実だよ。俺以外は誰も知らない白雪の顔。色っぽくて、凄く素敵だよ。」
でも、終わりなんだよ。
「誰かに見せたいけど、俺だけが独占したい。この矛盾、わかるかな?」
「独占禁止法に引っかかるわよ。」
「揉み消す。白雪は俺だけが独占してもいいんだ。いつまでも一緒だよ。」
もう、一緒にいられないんだよ。余計に胸が痛いよ。
凰士は、もう終わる事なんて、想像さえした事ないんだろうな。
私が別れを言い出したら、泣くのかな?駄々を捏ねるかな?
でも、どうにもならない事もあるんだよ。
「白雪、急に黙り込んで、どうしたの?最近、元気ないね。何かあった?」
「別に…。」
「少しは俺を頼りにしてよ。」
「しているわよ。本当に何もないのよ。」
「眠れないとか?調子が悪いとか?俺、良い医者を知っているよ。今からだって診てもらえる。すぐに行こうか?」
「別に調子は悪くないわよ。凰士、考え過ぎ。」
「白雪が元気ないのは嫌なんだ。ずっと一緒にいてもらうためにも調子が悪いところは治さないといけないよ。どんな不調でもいいから、話して。絶対に治してみせるから。」
「元気ない訳でもないし、特別不調がある訳でもないわよ。敢えて言うのなら、少し眠いのかな?だって、さっき…。」
誤魔化しは成功?
「白雪が抱いてって言ったから。それに、遠慮しないって言ったでしょう。でも、少し疲れたなら、眠っていていいよ。着いたら、起こしてあげるから。」
「凰士は疲れていないの?」
「この位じゃ、ね。」
「あぁ、そうですか。じゃあ、少し目を閉じて、静かにしていてもいい?」
「もちろん。あっ、ラジオ、消そうか?」
「平気。今もボリュームが大きい訳じゃないから。それに、静か過ぎると、凰士が眠くなっちゃうでしょう。」
「ありがとう。あっ。」
丁度信号で車が止まり、凰士が後部座席に手を伸ばす。
「これ、掛けていて。寒くない?」
「大丈夫。ありがとう。」
凰士のジャケットを上半身に掛け、少しだけシートを倒す。窓際に顔を向け、そっと瞳を閉じた。
ラジオの音に耳を澄ませ、出来るだけ何も考えないようにしながら。
「白雪、着いたよ。」
少し眠ってしまったみたい。凰士の優しい声で瞳を開けた。
「ごめん、寝ちゃった。」
「残念ながら、白雪の可愛い寝顔、見られなかった。窓の方に向けているんだもん。」
「そんなモノ、見なくてもよろしい。」
「ちぇっ。」
小さく舌打ちして、にっこりと微笑む。
「行こう。」
「うん。」
車外に出ると、ぎゅっと私の手を握り締め、私の速度で歩いてくれる。
こういう瞬間が大好きだったのに、な。
「本当に夜景が綺麗ね。」
レストランは最上階で、予約しておいてくれた席は窓際。ネオンが輝き、街が呼吸している。夜空の暗さは掻き消され、月や星々さえ息を潜めている。
「だろう。」
褒められた子供のような笑顔を零す。
「いらっしゃいませ。コースは伺っておりますが、メインディッシュにはお肉とお魚が御座います。あと、お飲み物をお伺いしたいと存じます。」
「お肉で。飲み物はアイスコーヒーで。」
「畏まりました。ごゆっくりお楽しみください。失礼いたします。」
店員が下がると、凰士が真っ直ぐに私を見つめ、微笑む。
「私の意見は聞かないのかしら?」
「えっ、違った?」
「正解だけど。」
「日頃の研究結果です。」
「何の研究よ。」
「白雪を正しく理解するため。」
「そんな研究をしなくてもよろしい。」
穏やかな空気が流れた。
あぁ、やっぱり、こういう方が楽しい。もう、いいや。考えるのはやめよう。覚悟は出来ている。もう、この時間を楽しむ事にしよう。
「失礼します。」
デザートが目の前に届くまで、楽しい時間を過ごせたし、凰士も何も言い出してこない。だから、私も何も考えずに済んだ。
「白雪。」
綺麗な彩りのデザートを目の前にして、凰士の声が少しだけ硬くなる。
胸の奥がきゅっと伸縮して、痛い。一気に身体中に緊張が走り、鼓動が早くなる。
「…。」
返事なんて出来なかった。
怖い、聞きたくない。絶対にイヤ。
「これを受け取って欲しいんだ。」
小さな白い箱を差し出される。
ねぇ、これって、もしかして?
「俺と結婚して欲しいんだ。」
真っ直ぐに私を見つめる瞳。息が詰まりそうな表情。
どうして、この一言を口にするの?一番、聞きたくない言葉なのに…。
「白雪?」
白い箱を見下ろしたまま、硬直してしまう私に、不安を滲ませた声。
大きく肩で息をして、頭を下げた。
「ごめんなさい。」
「えっ?」
凰士の顔を見る事が出来ない。多分、驚きと苦痛の織り交ざった表情をしている。
「ごめんなさい、結婚は出来ない。」
「どうして?」
掠れた凰士の声。
「ごめんなさい。」
「もう、俺の事なんて、好きじゃない?」
どうして、そんな哀しそうな声を出すの?涙が声に滲んでいるみたい。
「気持ちは変わらない。今も、愛している。でも、結婚はムリ。」
「愛してくれているのに、どうして、結婚はムリなんだよ?俺は、白雪とずっと一緒にいたい。だから…。」
やっぱり、凰士はわからないんだ。
「かぐや姫は、月に帰るでしょう。誰の求婚も受けずに。」
「白雪?」
これ以上の説明をしても、きっとわかってくれない。
「白雪はかぐや姫じゃない。何処にも行かない。俺と一緒にいる、ここが帰る場所のはずだ。だから、一生一緒にいたい。」
「ムリなのよ。凰士は白馬家の跡取り息子。最初から身分違いなのよ。美姫にも言われたじゃない。白馬家の跡取り息子には相応しい女じゃないの。」
「白雪以外に相応しい女性なんていない。」
「実家にもそれなりに資産のある、お上品で綺麗なお嬢様が相応しいのよ。私はどれにも当て嵌まらない。」
「白雪は綺麗だ。」
「そう思っているのは、凰士だけ。いい加減、目を覚ましたら?綺麗って言葉の本当の意味を理解して。」
「理解している。だから、白雪が綺麗なんだよ。世界中の誰よりも。」
凰士が必死で私を引きとめようとしている。
でも、私はちゃんと理解しているから。
「ごめん。もう、ムリ。終わりにしましょう。凰士も自分に相応しい女性を見つける時間が必要ですものね。」
「白雪!」
「ごめんなさい。」
ヤダ、泣かないって決めたのに、何で涙が零れるの?
「白雪…。」
「帰るね。今まで楽しかった。あっ、これ、返すね。今までありがとう。」
指輪を外し、凰士の部屋の合鍵と一緒に、テーブルに置いた。
「送っていくよ。」
「電車で帰れるよ。」
「送っていく。」
凰士が強い口調で言葉を吐き出す。こんな顔、見せたくない。
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘える。」
ここで素直に引き下がらなければ、きっと強制的に車に乗せられる。お姫様抱っこなんてされたら、近くにあるぬくもりにしがみ付いて、離れられなくなってしまう。
凰士は静かに手を伸ばし、指輪と鍵をポケットに入れた。無言のまま、車に戻る。小さく流れるラジオとエンジン音、周りの喧騒だけの重たい空気。息が詰まってしまいそう。
「俺は白雪と別れるつもりもないし、白雪との結婚も諦めるつもりないから。白雪以外の女性と結婚するつもりもない。前と同じように、白雪が振り向いてくれるまで追いかけるから。」
「無駄よ。」
「俺にはそれしか出来ないから。」
「バカね。」
「知っている。」
噛み締めるようにお互いの言葉を声にする。耳から入ったモノを、また噛み砕く。
「人ってね、どんなに好きでも、諦める事って出来るの。立ち止まって、周りを見れば、簡単な事、なんだよ。」
「俺には、出来ない。」
「出来ないんじゃなくて、しようと努力していないだけでしょう。」
「何度もした、白雪に片想いしている頃。でも、俺の中は白雪で一杯、誰も入れる余地がなかった。今もない。今は、白雪だけで溢れてしまいそうなのに。」
「じゃあ、空っぽになるほど、溢れさせちゃえばいいのよ。そうすれば、簡単に新しい女性を受け入れられる。」
「涸れる事はないんだよ。」
「簡単な事よ。」
まるで自分に言い聞かせているみたい。
「白雪は、俺と離れても平気なのか?」
「平気、になるように努力するわ。ううん、大丈夫。」
笑みを作り出したけど、上手に出来ていないと思う。
だって、こんなに胸が痛くて、今にも泣き出してしまいそうなんだもん。
「強がり、だな。」
そうよ、強がり。本当は今すぐにでも凰士の胸に縋り付いて、別れをないものにしたい。
「そうかもしれないわね。」
強く唇を噛み締めた。
「白雪、もし、プロポーズを取り消したら、恋人に、今までと同じように一緒にいられるのか?」
「…。」
そうしたい。でも、それは何の解決にもならない。未練多らしいだけ。
「邪魔になるだけよ。」
「邪魔って何だよ。」
声を荒げた。私の肩がびくっと震え、飲み込まれそうになる。
「凰士に相応しい女性を探すのに、よ。」
「探す必要はない。今、目の前にいるから。」
「時間が本当の事を気付かせてくれるわ。きっと、凰士が今の私の年齢になれば、あの時、私と別れて正解だったって、思う。」
「絶対に思わない。」
「ううん、思う。思わないといけないのよ。」
今度は私が大きな声をあげてしまった。
「凰士は、幸せになる義務があるの。自分に見合った女性とね。」
「じゃあ、白雪が一緒にいてくれよ。」
「いつまでも平行線ね。」
わざと少しだけ声を出すように笑った。これが私の精一杯。私は黙り込んだ、凰士も黙り込む。それしか、ない。
長いドライブが終わり、私の家は目の前。
「今までありがとう。楽しかった。会社では、仲良くしてね。さようなら。」
凰士は何の返事もくれない。静かに車から降りる。ドアを閉める瞬間、凰士の口元が動いた。
「またな。」
小さな声。もう、今までと違うのに。だから、私は独りで歩き出した。凰士の車を見送る事なく…。