8
翌日、やっぱり一睡も出来なかった。泣き腫らした瞼と重たい身体、痛む胸を抱えたまま、ベッドにしがみ付いていた。朝食も昼食も、水分さえ摂らずに。こんなので、明日、会社に行けるだろうかと不安になったが、身体も心も言う事を聞いてはくれない。
「白雪、どういう事だよ。」
煩いほどの足音の後、これまた煩いドアを開ける音。外の日差しが一気に入り込み、眩しくて、立っている影が見えるだけ。声で、吹雪だってわかった。
「白雪…。」
そのまま、ドアの前で立ち止まっている。さっきの勢いは消えていた。一体、何が起こったんだろう?
「その顔は何だよ。」
呆れた溜息と共に零れた声。大股で歩き、一気にカーテンを開け放たれた。光が入り込み、天気が良い事がわかった。さっきまで、天気を見る余裕さえなかったのに。
「ほら、ベッドから出ろ。」
「放っておいてよ。」
「聞きたい事があるんだ。」
「私はない。」
「ちゃんと説明しろよ。」
「何を?」
「凰士と別れた理由だよ。」
胸が音を立てて、締め付けられる。
「今は、話したくない。もう少し、少しだけ時間を頂戴。」
「白雪…。」
大きく息を吐き出し、ベッドの脇に腰掛けた。私に背中を向けている。
「凰士のプロポーズを断ったって、本当か?」
「うん。」
「恋人としても終わりにしたいって、そう言ったのは、本当か?」
「うん。」
頷くだけの返答は出来る。
でも、多分、それ以上の質問をされたら、泣いてしまうかもしれない。
「もう、凰士を好きじゃないのか?一人の男として。」
ここで頷く事が出来たら、私はこんなに悩まない。胸の痛みも半減するはずなのに。
「好きなのに、別れるのか?」
「仕方が、ないじゃない。」
「何が、仕方がないんだよ。」
吹雪が再び苛立った声を出した。いつもはびくつく事なんてないのに、今日は怖く感じてしまう。
「凰士は、白馬家の、跡取り息子、なんだよ。」
「だから、何だって言うんだよ。最初からわかりきっている事だろう。」
「もっと相応しい女性がいるでしょう。どう考えても私なんかが凰士と結婚出来ないのよ。だから、別れるしかないじゃない。」
声を荒げると同時に涙が零れ落ちた。
もう、涸れてしまうほど泣いたはずなのに。
「相応しいかどうかは、凰士が決める事だろう。凰士が白雪と結婚したいと願っているんだ。好きなら、受け入れるべきだろう。」
「絶対、後悔するに決まっている。だって、私、凰士に迷惑ばかり掛ける、お荷物にしかならない。資産家の仕来りとか何もわからないもの。だから、見合ったお嬢様と結婚した方が、凰士の幸せなのよ。今は辛くても、それがお互いのためなの。」
「バカだな。」
大きな溜息を零し、身体ごとこちらを向く。
私は零れる涙もどうにも出来ずに、強く唇を噛み締めた。
「もっと凰士を信用しても、頼りにしても、いいんじゃないか。凰士は、白雪を守りたくて、努力を続けている。白雪の幸せを、笑った顔を見たくて、頑張っているんだろう。」
「わざわざ、困難な道を選ばなくてもいいのよ。わかりきっているんだもん。」
「でも、凰士は白雪がいいんだよ。白雪じゃなくちゃ、ダメなんだよ。」
静かに首を振った。
吹雪の言葉が胸に沁みるけど、私は、怖い。きっと、凰士は私を見捨てたくなる。ううん、絶対に捨てる。そんな風になったら、私、きっと、立ち直れない。だから、今なら、傷は浅い。
「わからずや。」
立ち上がり、勢いのまま背中を向けられた。
呆れられちゃったのかな?でも、仕方がないよね。
「でも、凰士も諦めるつもりはないみたいだし、俺達は凰士を応援する。必ず、白雪に、俺の姉さんに幸せになってもらうよ。姉さんの幸せは凰士と一緒に歩む事だからね。」
「吹雪…。」
「朝から何も口にしていないんだろう。お茶でも持ってきてやるよ。そんな泣き腫らしたブスな顔をしていたら、明日、会社に行けないぞ。少しは浮上しろよ。」
静かにドアを閉め、出て行ってしまう。
でも、その背中は、私の心を少しだけ温かくしてくれた。
翌日、ベッドから離れられないと訴える身体と、軋む気持ちを抱えたまま、会社に出掛けた。
あれから、吹雪が持ってきてくれた蜂蜜入り紅茶以外、何も口にしていない。両親も心配してくれている。でも、こればかりは、もう少し時間が必要みたいだ。
「おはよう。」
事務所に入ると、私の隣の席に、凰士がいつも通り座っている。
ヤバイ、顔を見ただけで泣き出しそう。どんな顔をすればいいんだろう?
「おはよう、白雪。今日は、あまり綺麗じゃないね。瞼が腫れて、化粧も乗っていない。ダメだよ、睡眠が大切なんだからね。」
「凰士…。」
「何も食べていないって、吹雪から聞いたんだ。よかったら、御飯をご馳走するよ。白雪の食べたい物、何でもいいよ。」
私の足から力が抜け、椅子にしゃがみこむ。
「白雪?」
「どうして、いつも通りなの?」
掠れた声が零れ落ちた。涙が出なかったのが不思議なほど弱い声。
「言っただろう。俺はいつまでも白雪を追いかけるって。諦めの悪い男だって、誰よりも知っているはずだよ。」
「バカ…。」
瞼が熱い。
もう、後悔している。凰士が今までと同じ優しさを差し出してくれるから、いけないんだ。
両手で顔を覆った。でも、流れる涙が止められない。
「白雪…。」
ふわっと身体が宙に浮かぶ。
「少し、休もう。他の人に泣いているのを見られたくはないだろう。」
耳元で囁く声。
どうして、あんな酷い仕打ちをしている私に優しくするの?
「ありがとう。」
お礼を告げると、凰士がにっこりと微笑む。
そのまま、誰もいない救護室へ。普段から誰も使わないし、空き部屋みたいな場所。
「部長に、調子が悪いから少し休むと伝えておくよ。赤い目が治ったら、戻っておいで。」
「ありがとう。」
「外回りに出掛けないで、待っているよ。」
そう言い残し、部屋を出て行く。
情けないな。凰士との別れを決めたのは、私自身なのに、振った私の方が崩れちゃうなんてね。
掠れた笑い声と同時に涙が頬を伝う。
「バカは私ね。」
チャイムと重なった声は、消えそうで、天井を見上げた。
私、こんなに凰士が好きだったんだね。本当にバカだ。でも、仕方がないんだよね。辛いのは一時だけ。我慢出来るでしょう?今までだって、乗り越えられたんだから、大丈夫でしょう?
「白雪。」
突然、ドアが開き、その場に立っていたのは、沙菜恵と美人。
あぁ、煩いのが現れた。寝たフリをしようとしたが、狸寝入りは通用しないのが二人。きっと、叩き起こされる。酷い目に合うのがオチだ。
「おはよう。」
「あぁ、酷い顔。」
「本当に。」
やっぱり、容赦ないな。
偉そうに胸の所で腕を組んで、ベッドの横の椅子に腰掛ける。
「どうして、凰士くんのプロポーズを断った上、別れるなんて言い出したの?」
また、その話ですか?もう、いいでしょう。
「吹雪から聞いているんでしょう。どうせ。」
「聞いたわよ。そんなんで納得すると思う?」
「別に、納得してもらう必要ないわ。」
「あるでしょう。私達は応援しているのよ。二人が幸せになる事を。」
「そうよ。」
「ごめんなさい。でも、もう、それはムリよ。ううん、最初からムリだったのよ。」
美人と沙菜恵が同時に溜息を零す。
「あのね、そんな酷い顔をして、そんな事を言われても説得力の欠片もないの。そんなに悩んでいるのなら、相談してくれてもいいんじゃない?水臭いと思わないの。何より、それが許せないのよ。」
「そうよ。ずっと何か思い悩んでいるのはわかっていたわ。何で、何も言わないの?一緒に悩んであげるのに。本当にバカよ。」
「沙菜恵?美人?」
「だから、押し売りに来たの。無理矢理にでも相談してもらうからね。」
「そうよ。仕事をサボって、来てあげたんだからね。感謝しなさいよ。」
押し付けがましい事を口にするが、優しさが沁みる。
あぁ、弱っているな。
「と言う事で、私の意見を言わせてもらうわ。耳の穴を開いて、聞きなさい。凰士くんが好きなら、不安も何もかもを捨てて、飛び込めばいいのよ。凰士くんは、それを支えるだけの力は持っている。」
「そうよ。白雪一人くらいなら、彼が支えてくれるわ。何も考えずに、凰士くんに飛び込みなさい。両手を広げて、受け入れてくれるわ、絶対にね。」
私は無言を保った。
確かに恋人なら、それでいい。でも、結婚となると話は別だ。
「結婚は違うって言いたいわけ?」
「確かに、白馬の跡取り息子との結婚には、尻込みしたい気持ちはわかるわ。だって、私も白雪と同じ立場なら、そう思うもの。」
「安心しなさい。沙菜恵には絶対にあり得ない事だから。美貌も頭脳も持ち合わせた私なら、同じような話が舞い込んでも不思議はないけど。」
「煩いわよ。」
どんな時でも脱線する。さすがは、二人だ。
「でも、凰士くんは凰士くんじゃない。それに、二人のご両親だって、反対している訳じゃない。心配はいらないんじゃない?」
「お付き合いの段階では肯定的でも、結婚となると話が別なのよ。よくある事だわ。」
美人、アンタ、私を勇気付けるために来たんじゃないの?
「美人!」
沙菜恵が止めるが、もう遅いと思う。
「でも、凰士くんなら、そんな反対を押し退ける力を持っているわよ。大丈夫、男を見る目がある私が言うんだから、信じなさい。」
無言を押し通す私に、呆れた溜息。
「言いたい事があるなら、はっきり言ったら?白雪らしくもない。」
苛立ちの声を上げたのは沙菜恵。
「凰士に、余計な苦労をさせたくない。」
「白雪?」
「凰士、白馬家を守っていくために、会社を存続させるために、いつも勉強しているの。経済学に繊維学、ファッションの事。顧客情報、社員の事情。他にもたくさん。小さな頃、凰士は勉強嫌いで机に向かうだけで吐き気がするほどだったの。それなのに、白馬家のためにこんなに努力して、苦労している。それなのに、私なんかと結婚したら、余計な苦労が増えるだけじゃない。だって、そういう世界の事、何もわからないのよ。何をしていいのかさえ、わからない。そんなお荷物、苦労を背負い込むだけじゃない。それだったら、白馬家に見合う女性と結婚して、その人に支えてもらった方がいいの。」
「白雪…。」
「今は辛くても、きっと近い将来、これでよかったって、思える。お互いね。」
「バカね。」
「本当にバカね。」
「知っているってば。」
話している途中から零れた涙が、掌に落ちる。沙菜恵と美人の苦笑を見ながら、私も涙目で笑った。
「白雪の言い分はわかったわ。でも、それに納得したわけじゃないの。絶対に、白雪と凰士くんには結婚してもらわないと困るの。」
「何、また、賭け?」
「違うわよ。失礼な。」
「じゃあ、何よ。」
「お互いを想い合いながら、別れるのを見るのが嫌なだけよ。そういう別れって、ドラマとか小説だけでいいのよっ。」
「あぁ、そういう事。確かに、そうね。それにね、白雪には悲劇のヒロインは似合わないわ。何としても、二人が幸せになれる答えを見出してみせるから。」
結局、そこに戻るんですね。あぁ、わかりました。いいですよ、私一人が強情っ張りな悪役になりますよ。
「私達に任せて。絶対に白雪と凰士くんが上手く結婚出来るようにしてみせるわ。」
「大船に乗った気分で待っていなさい。」
言いたい事だけ伝え、二人は慌しく部屋を出て行く。嵐のような二人だ。一体、何をするつもりなんだろう?
さて、そんな事は良いとして、仕事に戻ろう。赤い目も治ったよね。ベッドから抜け出すと、ノック音。
「はい。」
「白雪、落ち着いた?」
凰士が顔を覗かせる。一瞬、心臓が大きな鼓動を打つ。
「うん。ごめんね。」
「気にしなくてもいいよ。部長の所に挨拶して、外回りに行こう。」
「うん。」
凰士と一緒に外回りは辛いけど、仕方がないよね?女は度胸。ファイト。どんな慰め方だと自分で突っ込める。大丈夫だよね?




