第十二章 最後の神殿、そして
残り一つの宝珠。
俺の翼は一枚。
力は、ほとんどない。
最後の神殿は、暗黒王テネブロスの神殿だった。
影の神殿。
全ての光を飲み込む暗闇の中に立つ神殿だ。
ルージュと俺は、その前に立っていた。
神殿は黒かった。
石造りなのに、光を反射しない。
周囲の木々も、草も、空気まで、その神殿の周りだけ色を失っていた。
「……ここで最後だ」
ルージュは俺を抱いて、静かに言った。
「ベービィちゃん……私さ、最初に会った時、正直ただかわいい赤ちゃんを拾ったと思ってたの。でも旅をしながら、なんか……すごく大事なものに思えてきて」
(……)
「正体とか、どこから来たとか、そういうのは聞かない。でも……ありがとう。ここまで一緒にいてくれて」
(俺こそ……)
俺は思ったが、「ぅ」しか言えない。
だから黙っていた。
ルージュが俺の頭を一度だけ、優しく撫でた。
「最後も一緒に行こう、ベービィちゃん」
「ぅ」
(……ああ。一緒に行く)
二人は神殿の中へ入った。
神殿の中は真の暗闇だった。
何も見えない。
ルージュが松明を出したが、すぐに消えた。
「全部消えちゃう……!どうしよう……!」
(……俺には今、ほとんど力がない。暗闇を払う魔法も使えない)
俺は困った。
本当に困った。
初めて、俺が完全に無力だと感じた。
(これが……最弱の感覚か)
暗くて、何も見えなくて、怖い。
俺は今まで恐怖というものをほとんど感じなかった。
だが今は、少し怖かった。
(……赤ちゃんだからか。力がないと、こんなにも不安になるのか)
と、その時。
「ベービィちゃん、ぎゅってしてる?力が入ってる?」
(!!!!!!!)
俺はルージュのコートをつかんでいた。
いつの間に。
(……し、してたのか俺。しっかり。何をしているんだ俺は。魔神王が怖くてぎゅってするとは……)
「怖い?大丈夫だよ。私がいるから」
(お前が俺に言うか!!!!俺の台詞だ!!!!俺が守る側だ!!!!……今は、守られてるが)
「一緒に行こう。手探りで進めば大丈夫」
ルージュは暗闇の中を、足元を確かめながら進み始めた。
俺を抱えて。
怖いだろうに。
それでも前に進んでいた。
(……ルージュ)
俺は思った。
(こいつは本当に勇者だな)
強いとか弱いとかじゃなく、前に進める人間だということが、本当の勇者なのだと思った。
暗闇の中、ルージュの足音だけが響いていた。
俺はコートをぎゅっとつかんだまま、その音を聞いていた。
(……怖くない)
少しだけ、そう思えた。
ルージュがいるから。
暗闇の奥に、テネブロスがいた。
真の暗闇を纏う魔王。
その存在自体が闇そのものだ。
声だけが、暗闇の中に響いた。
「よく来た、勇者よ。だが、ここには光は届かない。お前の聖剣も、ここでは輝かない」
「……本当に?」
「本当だ。諦めよ。宝珠はやれない」
ルージュは少し沈黙した。
俺は考えた。
(……テネブロスが言うことは事実だ。聖剣の光は、暗黒の魔法が最大に発動している場所では確かに弱まる。だが……消えるわけではない)
(俺には残り一枚の翼がある。その力を全て使えば……暗闇を少しだけ和らげることができるかもしれない。だがそれは俺の最後の力だ。使い切れば俺は完全に最弱になる)
(……それが目的だ)
(使え)
俺は決意した。
全ての力を、この瞬間に注ぎ込む。
俺の最後の翼が輝いた。
もちろん、外から見ても翼は見えない。
だが光は見えた。
俺の体から、ごくわずかな光が溢れ出した。
「え……ベービィちゃん、光ってる?!」
(そうだ。俺が光っている。これが俺の最後の力だ)
「どういうこと……?」
ルージュは俺を見た。
俺はルージュを見た。
言葉は伝えられない。
でも俺は、その光を聖剣に向けた。
「……聖剣に……向けてる?渡してるってこと?」
(そうだ。受け取れ)
ルージュが聖剣を構えた。
俺の光が聖剣に吸い込まれた。
聖剣が輝いた。
暗闇の中に、光が生まれた。
「ぬっ……!!!光が……!!!なぜ!!!」
テネブロスが後退した。
「今だ!!!!!!」
ルージュが叫んだ。
いや、俺が心の中で叫んだのか。
どちらかわからないくらい、その瞬間、二人の気持ちは一つだった。
「行くよ、テネブロス!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
ルージュが全力で踏み込んだ。
聖剣の光が、暗闇を割った。
一直線に、テネブロスの核心へ。
「ぐぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!!!!」
テネブロスが砕けた。
暗闇が消えた。
神殿に光が戻った。
最後の宝珠が、祭壇の上に輝いていた。
「……最後の一つだ」
ルージュが静かに言った。
剣を握る手が、わずかに震えていた。
「ベービィちゃん……いいの?これを壊したら、何かが変わる気がして」
(……気づいているのか)
俺はルージュを見た。
ルージュは真剣な目で俺を見ていた。
「ベービィちゃんが、何か大事なものを手放そうとしてる気がする。ずっとそんな気がしてた」
(……)
「……本当にいいの?」
俺は、ルージュの目を見た。
真っ直ぐな、大きな目。
ルージュ色の髪が、光の中に揺れている。
(……いい)
俺はゆっくりと、頷いた。
赤ちゃんの小さな頭で、ゆっくりと。
「……わかった」
ルージュが頷き返した。
「一緒にいるから」
聖剣が振り下ろされた。
最後の宝珠が、砕け散った。
パァン、という小さな音がした。
その瞬間。
俺の背中から、最後の翼が消えた。
十二枚の翼が、全て、消えた。
力が、消えた。
魔力が、消えた。
魔神王としての俺が、消えた。
(……ああ)
俺は思った。
軽い。
すごく、軽い。
何もない。
力も、魔法も、翼も、何もない。
ただの赤ちゃんだ。
(……これが、最弱か)
怖いと思った。
だが怖くなかった。
なぜなら、ルージュがいるから。
「ベービィちゃん……!?大丈夫?!なんか急に……なんか変わった?!」
ルージュが慌てて俺を抱き直した。
「顔色は……うん、大丈夫そう。でも、なんか……なんか違う気がする」
(そうだ。違う。俺はもう魔神王じゃない)
(ただの赤ちゃんだ)
俺はルージュの腕の中で、ぐずぐずと泣き始めた。
自分でも驚いた。
なぜ泣いているのか、わからなかった。
悲しいわけじゃない。
嬉しいわけでもない。
でも、涙が止まらなかった。
「どうしたの!?どこか痛い!?ベービィちゃん!!!」
(痛くない。ただ……なんだろう。よくわからないが、泣きたい。だから泣く。赤ちゃんなんだから、泣いていいだろう)
「よしよし……大丈夫だよ。私がいるよ」
ルージュが俺を強く抱きしめた。
温かかった。
魔力がなくても、温かかった。
いや、魔力がないから、こんなに温かく感じるのかもしれない。
(……これが、普通の体温か)
俺はルージュの腕の中で泣き続けた。
魔神王として生まれ、最強として生き、最弱を目指して旅をして、今ここに普通の赤ちゃんになった。
長い旅だった。
(……ブータ)
俺はふと、そう思った。
ブータ。
あの丸くてふかふかのぬいぐるみ。
消してしまったあのぬいぐるみのために、俺はここまで来た。
(……ブータ。お前がいなくなったから、俺はここまで来られた)
(ありがとう)
泣き声が、神殿の中に響いた。
神殿を出ると、空は晴れていた。
青い空に、白い雲が流れている。
風が吹いて、草が揺れていた。
ルージュは俺を抱いたまま、その場に座り込んだ。
「……全部終わったね」
(そうだ。全部終わった)
「十二個の宝珠、全部壊した。十二人の魔王、全員倒した」
(俺はその手助けをしただけだが……まあ、そうだな。全部終わった)
「ベービィちゃん……なんかすごく普通の赤ちゃんになった気がする」
(そうだ。なった。普通の赤ちゃんになった)
「前はなんか……目に力があったんだけど、今はただのかわいい赤ちゃんの目だ」
(それでいい。ただのかわいい赤ちゃんの目で十分だ)
「……ねえ、ベービィちゃん」
「ぅ?」
「一緒に暮らそう。ちゃんと育てるから」
(……前にも言っていたな)
「私、勇者として旅を続けるかもしれないけど……でも、ちゃんとお家も作って、ベービィちゃんの居場所を作る。約束する」
(……約束、か)
俺は泣きやんで、ルージュの顔を見た。
真剣な顔だった。
でも、目元が少し赤かった。
(……お前も泣いていたのか)
「ぶぅ」
(……よろしく頼む)
「え、嫌だった?」
「ぅあ!」
(嫌じゃない!!!むしろ大歓迎だ!!!……そう伝わればいいんだが)
「……うん、大丈夫そうだね。嬉しそうな顔してる」
(そうか。俺は嬉しそうな顔をしているか。まあ、嬉しいからな。当然だ)
ルージュが笑った。
さっきまで泣いていた目で、でも明るく笑った。
「じゃあ決まり!これからよろしくね、ベービィちゃん!」
「ぅ!!」
(よろしく頼む、ルージュ)
その夜、俺たちは街の宿に泊まった。
ルージュは久しぶりにゆっくり眠れると言って、すぐに寝てしまった。
俺はルージュの隣で、天井を見上げていた。
魔力がない。
翼がない。
何もない。
でも、ルージュがいる。
(……悪くない)
俺はそう思った。
最強から最弱への旅。
十二の神殿。
十二人の魔王。
ブータのいない穴。
それを埋めてくれたルージュという友達。
(……友達、か。やっぱりその言葉が一番しっくりくる)
俺は目を閉じた。
眠い。
赤ちゃんだから、眠い。
それだけだ。
それだけでいい。
(……おやすみ、ルージュ)
「ぅ」
俺は眠りについた。
翼のない背中で、ふかふかの布団の温かさを感じながら。
最強の魔神王は、今日から、ただの赤ちゃんになった。
それで、よかった。
本当に、よかった。




