第十一章 十番目、十一番目の神殿
残り三つの宝珠。
俺の翼は三枚。
力は、最初の五分の一以下になっていた。
もはや、大きな魔法は使えない。
細かい風の操作か、ほんの少しの魔力の干渉くらいしかできない。
(……本当に弱くなってきた)
だが、ルージュはもはや俺の助けをほとんど必要としなくなっていた。
九人の魔王を倒してきた経験が、ルージュを本物の勇者に変えていた。
その背中は、旅を始めた頃より一回り大きく見えた。
(……お前は強くなったな、ルージュ)
俺は心の中でそう言った。
声には出せないから。
ただ、その背中を見ながら、誇らしいような、寂しいような、不思議な気持ちがあった。
(魔神王が誰かの成長を誇らしく思うとは……我ながら、だいぶ変わったものだ)
十番目の神殿は灼熱王ヴァルカノスの神殿だった。
溶岩の中に立つ神殿。炎に満ちた空間。
近づくだけで空気が揺らめき、足元の岩が赤く光っていた。
ヴァルカノスは俺のおむつを替えようとして何度も俺を焦がしかけた魔王だ。
(……懐かしいな)
思い返せば、あの頃は毎日が騒ぎだった。
十二人の魔王が全員赤ちゃんの育て方を知らないまま、あれこれ試行錯誤していた。
炎の手でおむつを替えようとするヴァルカノス。
氷の手でミルクを冷やしすぎるグラシアール。
雷で子守唄を歌おうとして城の石壁を焦がすサンダロス。
(……あいつらは本当に、どうしようもなかったな)
俺はそう思いながら、少し口元が緩んだ。
どうしようもなかったが、全員が一生懸命だった。
(……俺のために)
ヴァルカノスは神殿に入ってきた俺たちを見て、炎の目を細めた。
「……来たか。ついに来たか」
「はい!!来ました!!!」
「……勇者よ。我の力はこれまでの魔王とは比べ物にならんぞ。覚悟があるか?」
「あります!!!」
(お前は相変わらず頼もしいな、ルージュ)
ヴァルカノスとの戦いは激烈だった。
神殿全体が炎に包まれ、溶岩が噴き出す。
熱が凄まじく、普通の人間なら接近するだけで倒れる。
「くっ……熱い!!でも行くっ!!!!!!!!!!」
ルージュは炎の中を突進した。
体が燃えそうになりながら、聖剣の光で炎を押しのけながら、前に進んだ。
(ルージュ!!!!)
俺は残り少ない魔力で、ルージュの周囲だけわずかに温度を下げた。
本当にわずかだ。以前とは比べ物にならない。
炎の海の中の、ほんの一滴の涼しさ。
だがそれで十分だった。
ルージュの意志が、残りをカバーした。
「ヴァルカノス!!!最後だ!!!!!!」
「ふっ……小娘が!!!」
「小娘でいい!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
聖剣の光が、炎を割り、ヴァルカノスの核心を貫いた。
「ぐぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」
ヴァルカノスが倒れた。
炎が静まっていく。
溶岩が冷え始める。
神殿が静寂を取り戻した。
十番目の宝珠が砕けた。
二枚。
(……二枚になった)
俺はその感覚に、少し息を呑んだ。
力が激減した。
魔力の量が、最初の十分の一以下だ。
もはや、細かい操作しかできない。
ルージュの戦いを支援することも、もうほとんどできない。
(……でも、ルージュはもう俺の助けがなくても戦える)
ヴァルカノスが俺を見た。
その目に、色々な感情が混ざっていた。
「……よく来た。よく……来た、魔神王様」
初めて、魔王が俺を正式な名で呼んだ。
(ヴァルカノス……)
「魔神王様……お体は……」
(だいぶ弱くなった。だがこれが俺の望みだ)
「……そうか。……それならば、よい」
ヴァルカノスが深く頷いた。
その目が、じわりと光った。
「……お前のおむつを替えようとして、何度も吹き飛ばされたことを覚えているか」
(覚えている。炎の手で近づくな、と何度思ったか)
「あの頃は……本当に、何もわからなかった。赤ちゃんとはどういうものか、何が必要なのか」
(俺も、何もわからなかった)
「だが……お前が笑った時のことは、覚えている。初めて笑った時」
(……覚えていない。生後何ヶ月の話だ)
「あの時は……城中が大騒ぎになった。魔神王様が笑われた、と」
ヴァルカノスが、静かに笑った。
「……達者でな、魔神王様」
(お前もな、ヴァルカノス。炎の中で穏やかに暮らせ)
ルージュが宝珠を砕いた後、俺をそっと抱き上げた。
「あと二つ……もう少し」
(そうだ。もう少しだ)
ルージュの腕が、少し震えていた。
疲れているのだろう。
それでも、前を向いていた。
十一番目の神殿は氷結王グラシアールの神殿だった。
凍てつく北の地に立つ、氷でできた神殿。
極寒の風が吹き、地面が凍りつき、息が白く煙る。
「さ、寒い……でも行く!!!」
(お前は本当に、止まらないな)
俺はルージュをできる限り見守った。
もはや魔法的な助けはほとんどできないが、ルージュの横にいることはできる。
それだけだが、それで十分だと俺は思った。
グラシアールは冷静な魔王だった。
氷の城に鎮座し、俺たちが入ってくるのを静かに待っていた。
「よく来た、勇者よ。我が宝珠は最後から二番目じゃ。ここまで来たということは、お前はかなり強い勇者になったのだろう」
「おかげさまで!!!!」
「……フム。では戦おう」
氷の魔法が炸裂した。
神殿全体が凍りつく。
床が鏡のように滑り、天井から氷柱が降り注ぐ。
だがルージュは臆さなかった。
「聖剣の光は氷も溶かす!!行きます!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
ルージュが全力で突進した。
氷の嵐の中を走り、グラシアールの攻撃を全て体で受けながら、前に進んだ。
体中が氷に覆われながら、それでも手だけは聖剣を握り続けた。
(ルージュ……!!)
俺は自分に何もできないことに、初めて焦りを感じた。
魔力はほとんどない。
助けられない。
ただ見ているしかない。
(……これが、力のない存在の感覚か)
怖かった。
ルージュが傷つくのが怖かった。
だがルージュは倒れなかった。
氷に覆われながらも、一歩一歩、グラシアールに向かって進んでいった。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
最大の光が放たれた。
グラシアールが砕けた。
十一番目の宝珠が砕けた。
一枚。
(……ついに、一枚になった)
俺は自分の変化を感じた。
魔力がほとんどない。
魔法は使えない。
感覚は完全に普通の生き物のものになっていた。
目で見て、耳で聞いて、肌で感じる。
それだけ。
(……これが、普通ということか)
寒かった。
本当に寒かった。
今まで魔力で温度を調整していたから気づかなかったが、氷の神殿は普通に寒い。
「ベービィちゃん!!大丈夫!?寒い?!?」
ルージュが俺をコートの中に包んだ。
暖かかった。
(……暖かい)
俺は黙って、ルージュのコートの中に包まれた。
グラシアールが倒れた姿で、俺を見た。
「……小さな存在よ。お前は……本当に最弱を望んでいるのか?」
(そうだ)
「力なき者の生は……楽ではないぞ」
(知っている。それでもいい)
「……なぜだ?」
(ブータを……壊したくなかったから。そして、ルージュのそばで、ちゃんと生きていたいから)
言葉では言えなかった。
ただ、俺は静かに、グラシアールを見た。
「……そうか。達者でな」
(お前もな)
ルージュがコートの中の俺を抱きしめた。
「ベービィちゃん、寒くない?」
「ぅ……」
(寒い。正直に言うと、かなり寒い。でも、今は暖かい)
「もうすぐ外に出るからね。もうちょっとだけ我慢して」
(我慢する。お前のそばにいる)
神殿を出ると、北の空に星が出ていた。
凍えるような夜だったが、星は美しかった。
一枚の翼が、星空の中に静かに溶けた。
「あと一つだよ、ベービィちゃん」
(……そうだ。あと一つだ)
「最後まで一緒にいてね」
「ぅ」
(……ああ。一緒にいる)
ルージュはそれを聞いて、少しだけ微笑んだ。
コートの中で、俺はその笑顔を見た。
(……最後まで、一緒にいる)
それだけは、俺が言えることだった。
「ぅ」という言葉でしか言えないが、
それだけは、本当のことだった。




