六月に滴る恋 後
俺はバイトを始めた。
パンとか倉庫とかの夜勤だ。
短時間で金額もいいし、好きな時に入れて、昼の時間を邪魔しない。
周りは塾講師、家庭教師といったバイトを始めていたが、
自宅通学で、特に趣味もない俺は、
それほどバイトの必要性を感じていなかった。
しかし、家に帰ってから、部屋でマスカットクレープを食い、
次は何か俺が――と胸を高鳴らせた瞬間、
親の金で買っていくのが微妙だと思ったのだ。
その次に小楠さんに会うことになった六月下旬――
バイト代を手に、
駅のコンビニで、集中力が上がるとかいうチョコレートを一袋、手に取った。
それ以上は負担かと迷ったが、
消しゴムくらいなら……と、文房具が並ぶ棚の前に立つ。
と、ノートが目についた。
――そういえば、前は、サークルのチラシの裏に計算を書いたんだった。
俺は無地のノートとチョコレートを買って、
蒸し蒸しと霧雨がまとわりつく中を、予備校に急いだ。
***
フリールームで、前と同じ場所に小楠さんの小さな背中が見えると、
自然と笑いが浮かんで来る。
俺が狭い通路を人をよけながら近づくと、
呼び掛ける前に小楠さんはパッと振り向いた。
時間を有効に使えるように、俺は早速質問を聞く。
小楠さんは付箋を貼った問題集を手に取る。
俺はリュックからさっき買ったノートを取り出そうとした。
と、小楠さんが新品のノートを俺に広げて渡す。
「じゃあ、このノートで……」
チラリと見えたその表紙に「質問用」と手書きしてあるのを見た瞬間、
俺の心臓が跳ね上がる。
小楠さんは質問を始める。
その真っすぐな質問に、俺の脳裏をよぎった考えはあっという間に退いていく。
――「俺とのこの時間のために、新しいノートを作ってくれた」、という考えは。
それでも、
真新しいノートに描かれる、俺の直線、曲線、文字、記号……
小楠さんの絶妙な相槌に乗せられながら、
またも俺は、この場所に小楠さんと二人きりの気がして、
いい気持ちで、次々と質問に答えていく。
「――とりあえず、質問はこれでおしまいかな!」
小楠さんが言うと、俺は目が覚めたような気がした。
「合格早瀬様、供物でございます。」
おどけたように小楠さんが、トロルチョコを3個俺に渡す。
「だから、俺、招き猫じゃねェし!」
以前にあったときの連続性のある笑いの根っこ。
くすぐったい。本当に――くすぐったい。
俺も思い出して、リュックからコンビニの袋を引っ張り出す。
「これ……」
「え?えーと……」
俺は困った。
「あ……前、クレープもらったから……」
「えー!いいのに……」
と笑いながら、袋を受け取って覗き込む。
「あ!これ、すごい好き!
――ノートは早瀬君の?」
「いや、あー、前はチラシの裏に書いたから……要るかなと思って……」
「えー!いいの?」
「おー……バイトの金で買ったし……」
男として格好をつけたかったのだが、
まともな会話ができているか、自分でも疑わしい。
「バイト?なんのバイト?」
「パンとか倉庫とか……」
「えー!楽しそう過ぎる!!」
「徹夜で仕分けして、そのまま大学に行く。」
小楠さんは顔をクシャクシャにして笑っている。
――バイトをして良かった。
小楠さんにチョコとノートを買って、
笑ってもらえて、
自然に会話を続けられる。
「小楠さん!
また教えてもらってるん?」
前にも来た女子だ。
「うん、そう……」
「あ、私も隣で聞いてていいですか?」
明確に声を掛けられて、思わずその女子の顔を見た。
その女子は、俺を見ている。
「さっき終わったから。」
「残念……次は私も聞きたいです!小楠さん、いい?」
小楠さんは俺を見ない。が、その子に向かって「うん、また……」と答えている。
俺は、折角の二人の場所に、土足で踏み入られたような思いだ。
小楠さんは悪くない。
――まあ、誰も悪くないんだろう。
しかし、存在すら知ってもらえなかった高三のときから、
この場所を得るまでの苦しさを思うと、どうも、気持ちに行き場がなかった。
また次に会うときが、いつかも分からないのに。
でも、小楠さんの立場を悪くするわけにはいかない。
俺は立ち上がって、リュックを背負いながら、
真っすぐ小楠さんの目を見た。
「じゃあ……また。」
小楠さんは、少し慌てたように笑って目を逸らし、
でも、何でもないように、
「ありがとうね!じゃあ、先生、またお願いします!」
とおどけて言う。
小楠さんとの間の線が――切れずに済んだ。
俺はその女子の横をすり抜けると、フリールームを出て、
霧雨の中を、傘を差さずに、駅に向かって歩く。
――線路沿いの道の途中、
俺は立ち止まって、携帯を取り出した。
メールを開いて、唇を噛む。
何度かトトトと指を動かしては、
トトトと消す。
結局、
「小楠さんが好きです。」
ということ以外、
何もないのだ。
その他全ての言動は、
「どの程度自然に見えるか」という苦しい問いの中を、
行ったり来たりしているだけだ。
いや、俺が苦しいのはどうでも良くて、
今一番大事なのは、
小楠さんの受験勉強を邪魔せずに、
成績を上げるサポートを――
サポート?
俺のサポート?
いつ、小楠さんが求めた?
――雨の雫が、髪や顔を伝って、携帯の画面に滴り落ちる。
「あ―――――……クソ……!」
俺は携帯を手にしたまま髪を搔きむしった。
深呼吸をすると、
携帯の画面をTシャツでゴシゴシと拭き、トトトと指を動かす。
――――トロルチョコありがとう
――――良ければ、次は、駅の反対側のマックで教えるよ
――――太田数学ⅡBひと回しした辺りが、質問会が充実しそう
入力した瞬間に送信ボタンを押す。
俺はブルリと犬のように身体を振ると、大股で歩き始める。
改札に向かうエスカレーターで、Tシャツを引っ張って顔を拭いていると、
携帯がブルリとする。
エスカレーターからつんのめるように降りると、携帯を見る。
――小楠さんだ!!
俺は唇を噛みしめ、固く目を瞑ってからメールを開く。
――――マックの質問会、ぜひお願いします!
――――直接マックで待ち合わせでいいよね?
――――質問会は七月◎日くらいがいいかな……
――――その日までに太田数学ⅡBひと回しする目標ができた
――――合格早瀬様、ありがとう!
俺の細胞の全てが、雨上がりの澄んだ鐘を鳴らしているようだ。
俺は、駅の改札口ということも忘れて笑顔になって、急いで顔を手で隠す。
やべェ……
――やべェ……やべェ!
二人でマック?
また七月に会える?
しかも、俺がしていること、小楠さんのサポートになってる?
駅のホームに立った俺は、急いで返信した。
――――七月◎日、午後ならいつでも大丈夫
――――太田ⅡBひと回し、応援しています
携帯をポケットに押し込むと、晴れやかな気持ちでホームから空を見る。
しかし、俺を濡らしていた霧雨は、
気付けば大きな雨粒に変わって、激しく降り始めている。
駅に自転車を置いているが、
家まで濡れて、漕いで帰ればいい。
家まで
濡れて
帰ればいい――――




