六月に滴る恋 前
六月半ばを過ぎた頃、
俺は、予備校最寄り駅にあるコンビニで文房具を見ている。
***
五月の終わりは、
「おすすめの参考書を渡す」ことを主な理由として、小楠さんに会いに行った。
本当は、この「参考書」を理由に、何度も会いたいと思ったが、
出し惜しみは小楠さんの勉強に悪影響だと思い直して、
結局、全部持って行った。
早く着き過ぎて、Mt.Bookで時間を潰してから予備校に向かう。
フリールームの奥に、あの小さな背中が見えたときには、心臓の音が耳まで聞こえた。
「小楠さん」
と呼びかけながら隣に座ると、
小楠さんは、ワァとかお疲れ様とか言いながら俺を見て、
「髪切ったんだ!」
と愛想よく言ってくれる。
「あー、久しぶりに床屋行った。2年ぶりくらいかも。」
「えー!これまでは、まさか自分で?」
「机のハサミとかで……」
俺が前髪をプツンと切る仕草をすると、小楠さんは弾けるように笑う。
一瞬、フリールームの視線が俺たちに集まり、小楠さんは肩をすくめて小さくなった。
それを見た俺が、少し肩をすくめてみせると、
小楠さんは顔を隠すようにして必死に笑いをこらえる。
俺は――
――二人で罪悪感を共有したことが嬉しくて、ただただ、くすぐったい気持ちだった。
この勢いを借りて、俺は聞いてみる。
「前に渡した問題集とか、分からないところあった?」
「あった!――聞いてもいい?」
――髪を切って良かった。
小楠さんに笑ってもらえて、自然に会話を続けられる。
「おー、どこ?」
小楠さんは、質問したいページにきちんと付箋を貼っていた。
俺はリュックからサークルのチラシを引っ張り出して、
その裏に式や図形を書いて説明する。
授業前のフリールームはざわついていたが、
――俺はこの場所に、小楠さんと二人きりのような気がした。
紙をよく見せるという体で小楠さんに少し身体を寄せる。
小楠さんも覗き込む――
「小楠さん!」
女子の声。
「これから生物だよね?」
俺はそちらを見ない。
が、視線が痛い。
「――彼氏さん?」
「あ、ううん。YNで一緒だったけど、Y大合格してて……教えてもらってて……」
その会話は、俺の喉の辺りに引っ掛かっている小骨を何度も動かす。
さっきまで、ほとんど有頂天の俺だったが、今は灰色の海に沈みかけている。
「いいなあ!今度私も教えてもらいたい!」
俺はようやく顔を上げて、その女子をチラリと見て、小楠さんに聞く。
「もう授業始まる?」
「あ、うん……」
――その女子はまだ立っている。
俺は言葉に詰まったが、「じゃあ帰るわ。」と、机に出したものをリュックに片づける。
「あ、その紙はもらっていい?」
小楠さんは遠慮がちに、俺が説明に使ったサークルの紙に手を伸ばす。
――その女子はまだ立っている。
すると、俺に聞こえるか聞こえないかの、小楠さんの小さな声がする。
「残ったのは今度聞きたい……」
俺は小楠さんをチラリと見た。
小楠さんが申し訳なさそうにうつむいている。
――灰色の海は、一瞬でマリンブルーの海になる。
俺は、やけに大きな動作でリュックを背負い、
一瞬、その女子の視界から小楠さんを隠すようにすると、
素早くささやいた。
「後で連絡する。」
小楠さんはうつむいたまま、クシャクシャッと笑ったが、
すぐに、まだ立っているその女子に言った。
「今日は3A教室だよねぇ?」
「今から行く?一緒に行こう。」
しつけェな、一人で行けよ……と俺は思ったが、これ以上は留まれない。
俺はそれ以上話し掛けられないまま、フリールームを出た。
***
北側の裏門から出て、線路沿いの道まで来ると、
後ろから「早瀬君」と息せき切った声がする。
「これ……渡し忘れた!」
小楠さんがコンビニの小さな袋を差し出す。
「バナナクレープなかったけど…マスカットクレープがあったから……
本もらったり、教えてくれるお礼!」
張り付くような六月の日差しの中、
小楠さんがいたずらっぽく笑っている。
「いや、お礼とかいらねェし……」
「お礼というか、供物だよ。合格早瀬君だし。」
「それ、招き猫だろ?」
俺は吹き出した。
暑いし、小楠さんには授業があるし、もう迷えない。
――俺は受け取った。
「じゃあ……
――あ、授業大丈夫?」
「全然、大丈夫じゃない!」
小楠さんはまたクシャクシャッと笑うと、
「今日は本当にありがとう!」と言いながら走って戻っていく。
その小さな背中が曲がり角で見えなくなると、
俺は日陰のない線路沿いの道を、
遠慮のない日差しに首元を焼かれながら、
駅まで歩いた。
溶けそうなマスカットクレープを手に、
俺も、
「ありがとう」の一言を言えれば良かった、
と思いながら。
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