五月に走る恋 前
※読みやすさを考え、「五月に走る恋」を前後編に分けました。内容に大きな変更はありません。
大学の授業がない、五月の平日の昼下がり。
俺は予備校最寄り駅の改札を出た。
リュックには、受験前に俺が使っていた問題集が三冊、紙袋に入ってカサカサと音を立てている。
改札口に近い自販機でリンゴジュースを買って、階段を降りる。
五月と言っても半袖でちょうどいい。
俺は、あまり日陰のない線路沿いの道を予備校に向かって歩き始めた。
***
「早瀬君!『お散歩サークル』入ったん?」
四月、入学して間もないある日。
――顔を上げると、予備校の頃から同級生の木島と付き合っている安田さんがいた。
「おー、まあ。木島は?」
「茶道部入るって。」
「木島が茶道部?」
入学式のときに、「インカレのサークルに入る」と意気込む平野に引っ張られ、
街歩きや近くの山を登るサークルを覗いた。
サークルは面倒くせェと思っていたが、
『街の地理や歴史に詳しくなる』
『案内のプロになる』
といった話を説明されてハッとした。
ぼんやりと……
来年、小楠さんを
「ここは実はコレコレの跡だ」
「ここの大福が美味い」
などと言って、俺が案内する画が瞼に浮かぶ……
スムーズに案内したらサマになるんじゃネェの?
今度の休みはあの寺、
次はあの食いもん屋とか……
細い道で手を繋いで……
気付けば俺は、「入ります」と答えていた。
***
今日は新入生歓迎の街歩きイベントということで、新入生全員参加だ。
その中に、木島と付き合っている安田さんがいて、
話しかけられたわけだ。
「小川先生が、早瀬君によろしくって言ってたで。」
「小川?なんで?」
「一昨日、小楠ちゃんに会いに行って、そのとき、小川先生にも会ってん。」
思いがけず耳にする名前に、目が白黒する思いだ。
「よ…予備校?」
「そう!小楠ちゃん、元気かなって。」
元気なわけねェだろ。
俺は白い目で安田さんを見た。
テメェの優位を見せたいだけじゃねェの?
浪人の覚悟を決めた線路沿いの姿、
参考書を見上げる小さな背中――
きっと、安田さんを笑顔で迎え、
笑わせたりもしただろう、小楠さんのことを思うと、妙に胸騒ぎがした。
安田さんには腹が立つが、どんな様子だったのか聞きたい。
「で、元気だった感じ?小川……と、小楠さん。」
小楠さんの名前を、自然に言えただろうか?
「うん、二人とも。小楠ちゃんとはマクド行ったし。」
「……」
「ほぼ毎日、あそこの自習室を使ってるんやって。」
俺は安田さんが目の前にいることをほとんど忘れた。
――予備校に行けば会えるかもしれない。
――マックくらいは誘っても……
「今度、早瀬君も一緒に行こうよ。
小川先生と小楠ちゃんに会いに。」
「え?俺?」
「戸塚っちも誘うわ。
――MINE交換せぇへん?」
俺は、出発の声を上げる先輩の方を見て、
リュックを背負い直した。
「あー、俺はいい。木島と行ってきて。」
俺は安田さんから離れると、
新入生の間に埋もれるように、ぞろぞろと歩き始めた。
***
俺は家に帰ると、早速、受験に使った参考書や問題集を整理し始めた。
平野のおすすめと被らず、
必ず、小楠さんの役に立ちそうなもの……
そういう良質の本に限って、
俺が使い込んでヨレヨレになっている。
――しかし、そういう使い込まれた、書き込みのある本が中古品で出回ることもあると聞く……
俺は、三冊選んで、携帯を睨む。
睨むだけで、何もしない。
招き猫に「落ちない」願いを掛けたあの日――
俺は、平野のおすすめ本を書店で確認してから、
厳選した本を小楠さんにメールした。
初めてもらった小楠さんからの返信は、丁寧で優しくて、
俺はむやみにくすぐったかった。
その次の日、早速「買い」をした、というメールが来て、
今度はにやけ笑いがとまらず、電車の中でひどく苦労した。
「買い」という言葉が、小楠さんと二人だけの合言葉のような気がしたのだ。
――が、それっきりだ。
それ以上、メールをする理由がなかった。
俺は、平野のおすすめ本を、小分けにして伝えなかった自分の鈍くささを恨んでいた。
平野のおすすめ本がなくなった今となっては、
「小楠さんが好きです。」という言葉以外に、メールの理由なんかない。
でも、安田さんが、大した理由もなく会いに行ったなら、
何か、役に立つ――渡せるものでもあれば、
俺も会いに行っても――いいんじゃねェか?
そんなわけで、俺は、自分の使い込んだ本を三冊選んだのだった。
***
事前に連絡はしなかった。
小楠さんの負担になったら困るし、
偶然会えたらいいと思ったのだ。
それでも――会えるかもしれない、という期待は、
四月の怒涛の新生活とは全く別の感情軸のようだった。
――「帰ってきた」という感覚。
俺自身を取り戻した、というような懐かしい感覚だった。
予備校の校舎が見えると、思わず唾を飲み込む。
考えてみれば、小楠さんが予備校に来ていたとしても、
どこの教室にいるか分からないし、
予備校生じゃなくなった今、勝手に入れない気がする。
俺は北側の裏門に立って、途方に暮れた。
***
――と、トコトコと駐車場の脇を歩いて、北側の裏門から外に出て行く人影。
以前と変わらず、周りを見ずに、
俺が端っこに立っていることに気付きもしない。
俺は思わず大きな声を上げた。
「小楠さん!!」
小楠さんはワァという声を上げて飛び上がった。
「――早瀬君!?お久しぶり!
――小川先生と会うの?」
小楠さんの自然な質問に俺は困惑した。
「好きです」と伝えない限り、言い訳の苦しさから逃げられない。
「あー、いや……あ、俺の使ってた本、
小楠さんに見せようと思って……」
「あ、ごめん!連絡くれてた?」
小楠さんは慌てて携帯を探そうとする。
「あー、いや……帰る途中だから……
寄った方が早いし……」
「そうなんだ!エー、ありがとう!」
自分のために俺が来るとは、
思いもよらないらしい小楠さん。
俺の苦しい言い訳でも、特に疑問にも思わない風だ。
俺は急いでリュックを降ろして、紙袋を引っ張り出す。
「あ、この二冊、私も持ってる!」
俺は三分の二が無意味だったことに打ちのめされそうだったが、
パラパラとめくりながら、小楠さんは弾んだ声を出した。
「すごい!二冊とも、難しくて使いこなせなかったんだけど……早瀬君、すごいねぇ。」
「いや、すごくねェし……
ていうか、ごめん、持って帰る……」
五月の日差しが俺たちに降り注ぎ、
ジリジリと汗がにじむ。
「小楠さん、なんか用事があって出てきた?」
「コンビニに行こうと思って……お昼ご飯とか。」
俺はリュックの脇ポケットに入ったリンゴジュースを思い出した。
「あー、これ、はい。」
「エェ!いいよ!暑いし、早瀬君、飲んで!
私は自分で買うから!」
「これ、あー、小楠さんに買った。
前、無糖コーヒー渡したから……」
「ハハハハハハハハ!!!合格コーヒー!!!」
小楠さんが思い切り笑い出した。
私服の半袖から見える細い二の腕に、
割と大きなほくろがある。
笑うたびに上下に動くそのほくろが目に入ると、
たまらなくむず痒くなった。
「ちゃんと飲んだよ!」
「マジか。苦手じゃねェの……
あー、とりあえずコンビニ行く?」
俺たちは歩き出した。
「マックとかは行かねェの?」
「行かないなぁ……お腹いっぱいになると眠くなるし……」
俺は、安田さんに連れ出され、
マックで安田さんの大学生活を聞いている、
地味で素直な小楠さんを目に浮かべた。
――自分がマックに誘わなかったことに、ホッとする。
コンビニに着くと、小楠さんはおにぎりを選ぶ。
俺は近くのバナナクレープを手に取る。
「これ好きなの?早瀬君。」
「あー……懐かしいと思って……
最近食べてねェけど……
……すげェ好きだから……」
当然ながら、
「美味しいよねぇ」
「定期的に食べたくなるよねぇ」
と、自然な会話を続ける小楠さん。
俺は、バナナクレープから目を離さず、
何も伝わらない――伝えられない現実に、
ただ唇を噛みしめた。
「買うの?」
既に小楠さんはレジに並ぼうとしているようだ。
俺も、バナナクレープを持って小楠さんの後ろに並んだ。
「久しぶりに、買うわ。
――おにぎり食べるなら、フリールームで一緒に食っていい?」
言った瞬間に、しまったと思った。
しかし、小楠さんはすぐにまともな返答をする。
「一緒に食べよう、食べよう!」
嬉しさと情けなさが胸の上を行き交う。
それでも俺は、小楠さんの後ろでレジを待つ間、
彼女のTシャツの肩口に浮き出るインナーの細い紐だけは、目から離さずにいた――
***
小楠さんは、縁起がいいから三冊全部もらう、と言う。
(――分かんねェとこあったら、いつでも聞いて。)
(――昼飯くらい、マックとかでたまに食べねェ?)
(――MINE交換しねェ?)
(――合格したら、街案内するわ。)
(――合格したら……)
全ての言葉は、
口から出る前に立ち止まり、
喉の奥に帰っていった。
俺は、小楠さんを前に、
味が分からないバナナクレープを食べ終わる。
――これ以上、邪魔はできない。
「俺、帰るわ。」
俺がリュックを持って立ち上がると、
一人の浪人生らしい男が小楠さんに声を掛けた。
「おーす。今日は授業?」
「今日は自習だけ。」
真っ赤に焼けた鉄の棒で、
肋骨辺りがえぐられるようだ。
俺はうつむいて前髪の隙間からそいつを見る。
――が、次の瞬間、
言葉が、
唇の扉を蹴破って転がり出た。
「ボロボロので良ければ、
またいいのがあったら渡しに来る。」
小楠さんが、俺の顔を見た。
――初めて、目が合った気がする。
「縁起よさそう!」
すぐに目を逸らした小楠さんは、
ちょっと慌てたような笑顔で言った。
「全部、【貰い】だね!」
俺は、「じゃあ」と、何とか言葉を絞り出すと、
逃げるようにフリールームを出た。
***
校舎を離れ、線路沿いの道まで来ると、
俺は、走り始めた。
五月の日差しが降り注ぐ線路沿いの道を、
俺は、
一度も立ち止まらずに
――駅まで
――全速力で走った。
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