表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/17

八月に抱き締める恋 後

――どこかから聞こえた、

車のドアをバンと閉める音にハッとする。


俺の腕にすっぽりと包まれた小楠さんは、

動かず、小さく固まっている。


俺は、腕の中の小楠さんをそっと見下ろす。


小楠さんは、ほんの少し俺を見上げたが、すぐにうつむいた。


そして、うつむいたまま、俺のシャツの胸元をキュッと掴み、

小さくつぶやいた。


「本当なの――


早瀬君は、待たなくていいから。


――明日戸塚さんと付き合っても……いいから。」


「なんで……そこまで言うの……」


「それが、私が、お付き合いを断ったってことだから。

――早瀬君が、自由だってことだから。」


俺のシャツを掴んだまま、小楠さんは続ける。


「――分かってるし。」


「え?」


「――分かってるし……分かってるし……」


「え……?」


小楠さんは、微かに震え、必死に泣くのを堪えている。


俺は、どうしていいのか、

抱き締めたことがだめだったのか、

謝るべきなのか、

何か聞けばいいのか、

もう一度抱き締めればいいのか、


――頭の中に濁流が渦巻く。


俺は、俺のシャツを掴む小楠さんの手にそっと触れてみる。


「分かってるって……何を?」


かすれた声で尋ねる俺。

小楠さんは切なそうに首を横に振りながら、震える声で言う。


「自分が……一番分かってるし……


だから、早瀬君は待たなくてよくて、自由だって――


ね、ハイ、


これで、早瀬君も了解ですね。」


最後はおどけるように小さく言って、

小楠さんは、俺の手とシャツから、自分の手を離した。


――俺の抱擁など、なんて無力なんだろう。

俺は打ちのめされそうだ。


誰が?


何が?


世界の中の、この小さな、気立てのいい女の子に、

こんなことを言わせる?


――他愛ないやり取り、

――罪のないからかい、

――無邪気な比較、

――振りかざす正論、

――避けられない勝敗、

――確実に過ぎる時間、

――聡明すぎる性格……


俺は、行き場のない手を固く握りしめる。


気付けば、小楠さんは、神社の大きな木陰を出て、

無遠慮に降り注ぐ太陽と、照り返す熱気の中から、俺を振り返っている。


俺は蝉の鳴き声に押し出されるように、一歩進む。

小楠さんは、俺に背を向け、前を向いて歩き出す。


ふいに、俺は、

全く違う、高い場所から、

真っ暗な闇の縁に歩いていく小楠さんを見ているような気がした。


***


その瞬間、俺は転がるように走り出し、

手を伸ばして、

小楠さんを後ろから引き寄せるように、思い切り抱き締めた。


「分かった……

分かった……小楠さん、

俺が待たなくていいことは分かったから……」


俺は、小楠さんの首元に顔を埋めた。


「もう、

俺のことで、

これ以上、

小楠さんは、

傷つかないで、

いい。」


抱き締める手に、ただ、祈りを込める。


「小楠さんは、今、

誰とも付き合ってなくて、

早瀬って奴からたまに勉強教えてもらってて、

毎日毎日、

努力して、

受験勉強をしている――


今は、それだけで、

それが――今の俺たちの……

一番なんだもんな。」


俺は、腕をほどき、そっと小楠さんと向き合う。


小楠さんは、うつむいたまま、

ほんの少し笑顔になって、

かばんの招き猫をキュッと握りしめた。


***


俺たちは、駅に向かって歩き始めた。


俺は、小楠さんの手をしっかり握って言った。


「誰も見てないときは、手ェ繋いでもいいよな。」


小楠さんは黙っている。

俺は慌てた。


「あ……駄目?付き合ってねェし……?」


俺の慌てぶりに、ようやく小楠さんがクシャクシャッと笑った。


「早瀬君が決めていいよ。」


「じゃあ、つなぐ。絶対つなぐ。」


俺が熱心にたたみ掛けて手を繋ぎ直したから、

小楠さんはいよいよクシャクシャッと笑う。


俺は、心の中に、温かくて甘い飲み物が満ちていく気がした。


線路沿いに吹く夕暮れの風は随分爽やかだ。


小楠さんにもっと笑って欲しい。

俺は、繋いだ手を大きく振ってみたり、引っ張ったりする。

「エェ?」と言いながら小楠さんが笑う。


――これで、いい。


「小楠さん、腹減らねェ?

マック行かねェ?

質問会もできるし。

――あ、今から予備校行くんだっけ?」


「ううん、今日は予備校行かないから……

質問会したいな。

――早瀬先生に会った理由を作らないと。」


言いながら、自分で笑う小楠さん。


「おー、やったぜ。

上書きできる。」


「上書き?」


「あー、いや、俺、さっき、マックで泣いてたから……」


「エッ?マックの中で?」


「椅子に座って、

なんか、冷えちまったポテトの前で……」


「ポテト……私が……」


小楠さんが遠慮がちに俺を見る。


「私が来なかったから……?」


「あり得ねェし、この年で、マックで泣くとか……」


思わずぼやく俺に、小楠さんはバツが悪そうにしている。


「ごめん……今度、T線に文句言っておくから……

『電車止めたから、早瀬先生が泣いちゃった』って!」


「俺ダセェ!」


通り過ぎる普通電車の走行音と俺たちの笑い声が、

風に乗って小気味よく混ざり合う。


「小楠さん。」


笑顔のままで小楠さんは俺を見上げる。


「二次試験まで、質問会しような。」


「うん!

じゃあ、この後、マックで予定立てていい?

受験まで後何回、質問会できるかな……」


「小楠さん。」


「なあに?」


「――二次試験終わった日に、返事聞かせて。」


回送電車がカタンコトンと通り過ぎる。


小楠さんは真面目な表情で目を逸らし、

回送電車を見送りながら静かに言った。


「うん……


――ごめんね。」


小楠さんの真面目な横顔が、

こんなにも綺麗だとは思わなかった。


俺は初めて小楠さんを見る思いで、目を凝らす。


俺はもう、

どうして「ごめんね」が彼女の口から出たのか、

考えようとは思わなかった。


今からマックで質問会をして、

終わったら、

冷えたフライドポテトを、

俺が、小楠さんに食べさせてあげる。


もう今は、それで十分だ。


***


夏はすぐに過ぎる。


秋が来れば、


――もう、受験の日はすぐそこだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ