八月に抱き締める恋 後
――どこかから聞こえた、
車のドアをバンと閉める音にハッとする。
俺の腕にすっぽりと包まれた小楠さんは、
動かず、小さく固まっている。
俺は、腕の中の小楠さんをそっと見下ろす。
小楠さんは、ほんの少し俺を見上げたが、すぐにうつむいた。
そして、うつむいたまま、俺のシャツの胸元をキュッと掴み、
小さくつぶやいた。
「本当なの――
早瀬君は、待たなくていいから。
――明日戸塚さんと付き合っても……いいから。」
「なんで……そこまで言うの……」
「それが、私が、お付き合いを断ったってことだから。
――早瀬君が、自由だってことだから。」
俺のシャツを掴んだまま、小楠さんは続ける。
「――分かってるし。」
「え?」
「――分かってるし……分かってるし……」
「え……?」
小楠さんは、微かに震え、必死に泣くのを堪えている。
俺は、どうしていいのか、
抱き締めたことがだめだったのか、
謝るべきなのか、
何か聞けばいいのか、
もう一度抱き締めればいいのか、
――頭の中に濁流が渦巻く。
俺は、俺のシャツを掴む小楠さんの手にそっと触れてみる。
「分かってるって……何を?」
かすれた声で尋ねる俺。
小楠さんは切なそうに首を横に振りながら、震える声で言う。
「自分が……一番分かってるし……
だから、早瀬君は待たなくてよくて、自由だって――
ね、ハイ、
これで、早瀬君も了解ですね。」
最後はおどけるように小さく言って、
小楠さんは、俺の手とシャツから、自分の手を離した。
――俺の抱擁など、なんて無力なんだろう。
俺は打ちのめされそうだ。
誰が?
何が?
世界の中の、この小さな、気立てのいい女の子に、
こんなことを言わせる?
――他愛ないやり取り、
――罪のないからかい、
――無邪気な比較、
――振りかざす正論、
――避けられない勝敗、
――確実に過ぎる時間、
――聡明すぎる性格……
俺は、行き場のない手を固く握りしめる。
気付けば、小楠さんは、神社の大きな木陰を出て、
無遠慮に降り注ぐ太陽と、照り返す熱気の中から、俺を振り返っている。
俺は蝉の鳴き声に押し出されるように、一歩進む。
小楠さんは、俺に背を向け、前を向いて歩き出す。
ふいに、俺は、
全く違う、高い場所から、
真っ暗な闇の縁に歩いていく小楠さんを見ているような気がした。
***
その瞬間、俺は転がるように走り出し、
手を伸ばして、
小楠さんを後ろから引き寄せるように、思い切り抱き締めた。
「分かった……
分かった……小楠さん、
俺が待たなくていいことは分かったから……」
俺は、小楠さんの首元に顔を埋めた。
「もう、
俺のことで、
これ以上、
小楠さんは、
傷つかないで、
いい。」
抱き締める手に、ただ、祈りを込める。
「小楠さんは、今、
誰とも付き合ってなくて、
早瀬って奴からたまに勉強教えてもらってて、
毎日毎日、
努力して、
受験勉強をしている――
今は、それだけで、
それが――今の俺たちの……
一番なんだもんな。」
俺は、腕をほどき、そっと小楠さんと向き合う。
小楠さんは、うつむいたまま、
ほんの少し笑顔になって、
かばんの招き猫をキュッと握りしめた。
***
俺たちは、駅に向かって歩き始めた。
俺は、小楠さんの手をしっかり握って言った。
「誰も見てないときは、手ェ繋いでもいいよな。」
小楠さんは黙っている。
俺は慌てた。
「あ……駄目?付き合ってねェし……?」
俺の慌てぶりに、ようやく小楠さんがクシャクシャッと笑った。
「早瀬君が決めていいよ。」
「じゃあ、つなぐ。絶対つなぐ。」
俺が熱心にたたみ掛けて手を繋ぎ直したから、
小楠さんはいよいよクシャクシャッと笑う。
俺は、心の中に、温かくて甘い飲み物が満ちていく気がした。
線路沿いに吹く夕暮れの風は随分爽やかだ。
小楠さんにもっと笑って欲しい。
俺は、繋いだ手を大きく振ってみたり、引っ張ったりする。
「エェ?」と言いながら小楠さんが笑う。
――これで、いい。
「小楠さん、腹減らねェ?
マック行かねェ?
質問会もできるし。
――あ、今から予備校行くんだっけ?」
「ううん、今日は予備校行かないから……
質問会したいな。
――早瀬先生に会った理由を作らないと。」
言いながら、自分で笑う小楠さん。
「おー、やったぜ。
上書きできる。」
「上書き?」
「あー、いや、俺、さっき、マックで泣いてたから……」
「エッ?マックの中で?」
「椅子に座って、
なんか、冷えちまったポテトの前で……」
「ポテト……私が……」
小楠さんが遠慮がちに俺を見る。
「私が来なかったから……?」
「あり得ねェし、この年で、マックで泣くとか……」
思わずぼやく俺に、小楠さんはバツが悪そうにしている。
「ごめん……今度、T線に文句言っておくから……
『電車止めたから、早瀬先生が泣いちゃった』って!」
「俺ダセェ!」
通り過ぎる普通電車の走行音と俺たちの笑い声が、
風に乗って小気味よく混ざり合う。
「小楠さん。」
笑顔のままで小楠さんは俺を見上げる。
「二次試験まで、質問会しような。」
「うん!
じゃあ、この後、マックで予定立てていい?
受験まで後何回、質問会できるかな……」
「小楠さん。」
「なあに?」
「――二次試験終わった日に、返事聞かせて。」
回送電車がカタンコトンと通り過ぎる。
小楠さんは真面目な表情で目を逸らし、
回送電車を見送りながら静かに言った。
「うん……
――ごめんね。」
小楠さんの真面目な横顔が、
こんなにも綺麗だとは思わなかった。
俺は初めて小楠さんを見る思いで、目を凝らす。
俺はもう、
どうして「ごめんね」が彼女の口から出たのか、
考えようとは思わなかった。
今からマックで質問会をして、
終わったら、
冷えたフライドポテトを、
俺が、小楠さんに食べさせてあげる。
もう今は、それで十分だ。
***
夏はすぐに過ぎる。
秋が来れば、
――もう、受験の日はすぐそこだ。




