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八月に抱き締める恋 前

小楠さんは唇を噛んでうつむいた。


俺の全身が凍っていくようだ。

大した時間じゃないのに、恐ろしいほど時間が長い。


小楠さんは、招き猫をいじる手を止めて、ゆっくりと口を開いた。


「お付き合いは――――


――――できません。」


俺は、


真っ暗になったのか、

真っ白になったのか、


泣いていいのか、

笑えばいいのか、


浮いてるのか、

沈んでいるのか、


自分でも、顔から血の気が引いていくことが分かる。


チラリと俺を見た小楠さんは、

慌てふためいたように、パッと顔を上げた。


「あ、早瀬君、あのね!

違う、あの……友達というか……

今みたいな感じで……いるのはどうかなって……」


「……友達なんだろ……」


俺は目を逸らす。

慰めなんか――


「だめかな……?

合格発表まで、同じだよ……

太田数学三周目で会うとか、質問会とか……

付き合っていても、友達でも、やることは同じ……」


「違う……全然……小楠さんが彼女だって、言えねェし……」


「あ、そこは、そうだけど、それでいいんだもん……」


小楠さんは、ヒョイと俺に近づいて、「歩こう」というように地面の方を指差す。


俺はノロノロと歩き出す。


――――スルリ


その瞬間、俺は小楠さんを勢いよく見下ろした。


俺の指に、小楠さんが指をそっと絡めてきたのだ。


俺は何かが喉で引っ掛かって、一言も出てこない。


「受験勉強で大変だけど、

私には、

気になる人がいて、

その人は頭が良くて、

応援してくれて、

勉強を教えてくれて、

背が高くて、

かっ……こよく……て……」


俺の顔がワッと熱くなる。

小楠さんは少し呼吸を整える。


「その人のためにも、

受験勉強を頑張るって……

そういうのは、駄目なのかな……」


「……気に……俺……」


舌がもつれて言葉が詰まる俺を見て、

小楠さんはちょっと吹き出した。


「うん、私の気になる人が、早瀬君。」


小楠さんが指にキュッと力を込める。


その小さな指の、

小さな仕草が、

俺に無限の希望と力を

与えてくれるような気がした。


俺も、指に力を込めた。


「付き合ってるとか……彼女とか……じゃねェけど……」


俺は言葉を探す。


「待ってていいって……ことだよな?」


「うん!」


小楠さんは大きく頷いた。


でも、すぐに静かな声で付け足す。


「待たなくてもいいってこと。」


俺は「そんな…」と言いかけたが、

適当な仮定など、今の彼女の前では無意味なんだ。


俺は黙った。

その代わり、指ではなくて、

手をしっかり繋いだ。


小楠さんは、俺が繋いだ手を動かさなかった。


***


日陰を選んで、目的地もなく俺たちは歩き回り、

町の外れの、見たことのない神社の森に行き着いた。


シェシェシェシェ……

上から押されるような蝉の声。


さすがに引き返そうと足を止めた瞬間、

小楠さんの孤独な声が耳に刺さった。



「――もし、誰か好きな人とかできたら、

ちゃんと……教えてね。」


俺の胸に太い木の杭が打ち込まれた。


それは、俺の痛みじゃない。


――小楠さんだ。


この言葉を言わなければいけない小楠さんの痛みが、

強烈に俺に伝わったのだ。


人通りのない、神社の森のそば。


俺と小楠さん。


夏の木陰の石段に吸い込まれる蝉の声――――



―――――



気付けば俺は、


細くて柔らかくて


少し汗で湿った


彼女ではない小楠さんを


無我夢中で


抱き締めていた



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