第50話 秘密の手紙がいらない日
南部の地方聖堂でトーマたちが危機を収めてから、五日後。
春にルカへ手紙を渡した、ヨハン・エーベルが所属する地方聖堂には、底冷えのする冬の空気が満ちていた。
かつての物置を改装した『個別技能解析室』の窓から、粉雪が舞うのが見える。ヨハンは一人、真新しいバインダーを開き、静かにペンを走らせていた。
それは、この解析室の公開記録棚の最前列に収められるべき、最初の一ページ。先日トーマたちに告げた通り、自身の《注釈》を『1号』とする前に、彼がどうしても埋めておかなければならない『空席の0番』だった。
ヨハンは、八年前に書いた日誌と、当時の断片的な控えを机へ並べた。
あの秋の授与式。十五歳の少年に顕現した技能と、自分の脳裏に浮かんだ構造情報。規則に縛られて何も言えず、彼はその冬、街道で亡くなった、決して消えない悔恨。
すらすらとは書けなかった。思い出せることと、残っている記録が一致するか、一行ずつ確かめた。
『記録〇番:マレク』
『技能名:《鈍足》』
『当時の等級:第五等級』
『資料の性質:当時の控えとヨハン・エーベルの記憶による。本人の再試験は不可能。実証済みの運用手順ではない』
『発動条件:当時の記録が不十分であり、完全には再構成できない』
『対象:保持者自身』
『効果:技能によって移動速度が低下している間、体力の消耗と体温の低下も同率で遅くなる、と当時の《注釈》を解釈した』
『代償:移動が遅くなる。危険な場所を短時間で離れる用途には不利』
『上限・例外:限界値、持続条件とも記録不足。低体温や疲労を無効にする能力ではない』
『運用仮説:寒冷地での消耗を抑える可能性があった。ただし、保温、食料、避難先、同行者の代わりにはならない。救命できたと断定することはできない』
最後に、技能の欄とは別の一行を足した。
『私が先に確かめるべきだったこと――帰る場所があるか。今夜、暖かく眠れるか』
生きていれば、という想像はいくらでもできた。だからこそ、想像をマレクの実績として書いてはいけなかった。
この記録は、遺族に連絡を取り、氏名と死について公開する範囲を相談していた。残った私生活の記録は公開しない。
ヨハンは確認を受けた頁だけを綴じ、公開棚へ置いた。
書き終えても、後悔は消えなかった。消すための記録ではなかった。
「……終わりましたか、ヨハンさん」
扉が開き、ルカが入ってきた。彼の胸には、技能記録士の正式な銀の徽章が誇らしく光っている。
「ああ。いつでも開示できる」
「良かったです。……あ、それから、王都から便りが届いていますよ」
ルカが差し出したのは、二通の手紙だった。
一通は、荒々しい筆致の封筒。セラからだ。
『ヨハンへ。新設した救助隊の初任務が終わった。エダは安全綱をつけ、試験済みの範囲で《一歩》を使って誘導索を渡してくれた。私は同意を得た作業員の負荷を引き受け、巻上具の操作を助けた。組合から応援に来たノルは、下見済みの帰路を案内した。連携欄には、直したい所がまだ三つある。みんな、あんたが残した記録を頼りに自分の居場所で戦ってる。これからもよろしく頼むよ、隊長より』
ヨハンはふっと微笑んだ。彼女は、隊の報告書とは別に、この便りを書いてくれたらしい。自らの隊を率い、独立した指導者として各地を駆け回っている。
もう一通は、上質な羊皮紙に王家の封蝋が施されたもの。リアーネ王女からだった。
『ヨハン神官。公共設備局での《余白》の運用が、本日より正式に開始されました。王都の魔力炉の余剰分を蓄え、同系統の回路を持つ貧民街の治療院へ再配分するテストは順調です。私は権力闘争の舞台から降りましたが、自分の選んだこの場所で、排除されないための戦いではなく、誰かの生活を支えるための戦いを続けます。どうかあなたも、あなたの選んだ場所で良き仕事を』
セラも、リアーネも、ルカも、ニアも、ミラも、エルサも、トーマも、ガイも。
それぞれの仕事があり、困った時には互いに便りを出す。別の場所へ行くことは、つながりを切ることではなかった。
「……さて。私たちも、私たちの仕事をしようか」
ヨハンは二通の手紙を机の引き出しにしまい、ルカへ向き直った。
「はい。本日から、新制度の正式施行です。すでに大礼拝堂では、冬の月例授与式が始まっています」
大礼拝堂の厳粛な空気は、七年前と何も変わっていないように見えた。
神の御前で、十五歳の少年少女たちが次々と自らの運命を告げられていく。
「第二等級《剣術》」
「第三等級《灯火》」
歓喜の声と、安堵の吐息。
そして、一人の小柄な少女が祭壇の前に立った時だった。
授能板に浮かび上がったのは、ヨハンにも聞き慣れない技能名だった。
判定を下す神官が、手元の新しい教本と照らし合わせる。
「……第五標準化等級」
神官の声が響いた瞬間、少女の肩がビクッと跳ねた。
背後で見守っていた家族の顔色も一瞬にして蒼白になる。
かつてなら、ここで「外れだ」「無価値だ」と無慈悲に切り捨てられ、家族の判断一つで、子どもが行く先を失ってしまうこともあった。
少女は恐怖に顔を歪め、涙をこぼしそうになっていた。
だが、祭壇の神官は、かつてヨハンが強いられたような冷酷な宣告はしなかった。
「落胆することはありません」
神官は穏やかな声で、少女とその家族へ告げた。
「第五等級は、無価値という意味ではありません。使用条件の個人差が大きく、共通の手順を作るのが難しい分類です。あなた自身の条件を、これから確かめる必要があります。……希望すれば、九十日を最初の相談期間として、一緒に使い道を探ります。生活や学校の相談も受けられます。回廊を出て、右の解析室へ向かってください」
切り捨てるのではなく、繋ぐための言葉。
少女の家族は、安堵のあまりその場にへたり込みそうになりながら、深く頭を下げた。
数分後。
解析室の扉がノックされ、少女と両親が恐る恐る部屋に入ってきた。
「ようこそ。お待ちしていました」
ヨハンは、明るい陽射しの差し込む部屋で、堂々と彼らを迎え入れた。
「私は技能解析官のヨハン。こちらは記録士のルカです」
ヨハンは三人を机の前の椅子に座らせ、少女の目線に合わせて腰をかがめた。
「第五等級と言われて、怖かったかい」
「……はい。私、何か悪いことをしたのかって」
少女の震える声に、ヨハンは優しく首を横に振った。
「あなたが悪いから、第五になったわけじゃない。使い道がまだ分からなくても、暮らしの相談はできるよ」
ヨハンは机の上から、真新しい一冊のノートを取り出し、少女の前に置いた。
「これは……?」
少女が不思議そうにノートを開く。
そこには、発動条件、対象、効果、代償、上限・例外という『五つの欄』が印字されていた。
だが、その欄の中身は、完全に空白だった。
「あなたの能力で何ができるかも、あなたが何をしたいかも、私はまだ知りません」
ヨハンは、あえて《注釈》を発動しなかった。
先に読むより、聞くことがあった。
「急いで埋めなくていいんです。九十日で分からなくても、相談は続けられます」
「ここは、空けておいていいんですね」
「ええ。書くのは、あなたと一緒に確かめてからです」
少女は空欄へ指を置いた。肩には力が入っていたが、ノートを閉じようとはしなかった。
「……よろしくお願いします」
少女が小さく頭を下げる。隣でルカが「では、現象の確認から」と記録のペンを構えた。
「その前に」
少女が小さく手を上げた。
ルカはペンを止める。
「学校へ、まだ行ってもいいんですか」
ヨハンは、少女と両親の顔を順に見た。
「その相談から始めよう」
ルカがノートの最初の行へ、少女の希望を書いた。技能の欄は、まだ空白だった。
窓の外を、薄い雪が流れていく。
かつては誰にも見られないように握らせた紙を、今日は同じ机の上で、みんなが見ていた。




