第9話 そろばんの音で、私は正式採用を勝ち取りました
ルーンベル冒険者ギルド支部に、魔の時期がやってきた。
『月末決算期』である。
ただでさえ荒くれ者たちでごった返すギルド内が、今日は足の踏み場もないほどの殺気と熱気に包まれていた。
月末は、家賃や装備の更新費用を払うために、冒険者たちがこぞって未換金の討伐証明書や採取品を持ち込む時期なのだ。
「遅えぞ! 俺の報酬計算、まだ終わらねえのか!」
「こっちのパーティが先だ! もう一時間も待ってるんだぞ!」
カウンターのあちこちから怒声が飛び交う。
受付主任のセルマさんが、山積みの書類に埋もれながら青ざめた顔で声を張り上げていた。
「順番に対応しています! ですが、C級以下の報酬規定が昨日改定されたばかりで、個別計算に時間が……っ」
ルーンベル支部の書類は、すべて手書きの羊皮紙だ。
討伐部位の数、鮮度、魔石の純度、それにギルドへの手数料。それらを一つ一つ手作業で計算し、銀貨や銅貨を数えて渡さなければならない。前例主義で丁寧な仕事をするセルマさんでさえ、この物量と複雑な計算式の前には完全にパンク寸前だった。
私は、自分の持ち場である記録整理の机からスッと立ち上がった。
(……やるしかない)
私は手元にある『簡易そろばん』を抱え、セルマさんの隣のカウンターへと滑り込んだ。
「セルマ主任、C級とD級の討伐証明書をすべてこちらへ回してください。私が計算と金種の仕分けをします」
「白石さん!? でも、改定されたばかりの複雑な歩合計算よ。仮採用のあなたには……」
「大丈夫です。数字の法則は頭に入っています。主任は、冒険者の方への最終確認と現金の受け渡しだけをお願いします」
私は山積みにされた羊皮紙の束をガサッと手元に引き寄せた。
現代の会社で、何百枚という請求書と伝票をさばいてきた月末の経理業務に比べれば、やることは同じだ。
一番上の紙に目を落とす。
ゴブリンの右耳十五個、欠けた魔石三個、薬草二束。
パチ、パチ、パチ、ジャラッ。
私の指先が、そろばんの珠を弾く。
計算結果を台帳の端に書き込み、次。
赤毛猪の牙四本、毛皮一枚。
パチパチ、ジャラッ。次。次。
『月末で忙しいのに、まだ紙とそろばんなんて使ってるの? アナログさんはこれだから』
現代の職場で、後輩たちから冷ややかな目で見られていた記憶がふと蘇る。
システム化された現代では、私の計算スピードなんて誰の役にも立たなかった。
けれど、魔法はあっても事務処理が未発達なこの異世界では、違う。
パチパチパチ、ジャラッ。
私の弾く小気味よい音が、怒声で溢れていたギルド内に不思議なリズムをもたらし始めた。
滞っていた列が、嘘のような速度で進み始める。
「な、なんだあの新人……紙をめくるだけで計算が終わってやがるぞ」
「魔法か? いや、あの木枠の道具を弾いてるだけだ」
ざわめきが、驚きと感嘆に変わっていく。
「ほら、ユイちゃんの窓口、もうこんなに進んでるぜ!」
「あのパチパチって音聞いてると、なんだか妙に安心するんだよな」
怒り狂っていた冒険者たちが、そろばんの音に合わせて大人しく列を作り始めたのだ。
それから数時間。
私はただひたすらに数字の海に潜り、無心で計算と書類の仕分けを続けた。
気づけば、窓の外はすっかり茜色の夕暮れに染まっていた。
「……終わった」
最後の台帳に完了の印を押し、私はほうっと長く息を吐いた。
凝り固まった肩を回していると、隣から信じられないものを見るような視線を感じた。
セルマ主任だった。
彼女は、私が処理した計算書の束をパラパラとめくり、震える声で呟いた。
「計算ミス……ゼロ。おまけに、危険度別の仕分けまで終わってるなんて……」
彼女はゆっくりと顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
その目には、以前のような『仮採用の新人』を見る冷たさはなく、明確な『同僚』への敬意が宿っていた。
「……白石さん」
「はい。あの、何か数字にズレがありましたか?」
「いいえ」
セルマさんはふいっと顔を逸らし、少しだけ頬を赤くして、ツンとした声で言った。
「明日から、その仮採用の腕章は外してちょうだい」
「えっ……クビ、ですか?」
「違うわよ!」
セルマさんは慌てて振り返り、コホンと咳払いをした。
「……正式採用よ。支部長には私から話を通しておくわ。明日からは『受付嬢兼記録係』として、私と一緒にこのギルドを回して。……頼りにしているわ、ユイさん」
その言葉に、私はパッと顔を輝かせた。
現代では「時代遅れ」と笑われた私の力が、この世界で、確かに私の居場所を作ってくれたのだ。
冒険者たちが帰り、静まり返ったギルドのカウンター。
心地よい疲労感に包まれて一人でそろばんを手入れしていると、ギィッと扉が開く音がした。
「……終わったか」
低く、落ち着く声。
顔を上げると、依頼から帰還したばかりのレオンさんが立っていた。
彼は私の前に歩み寄ると、カウンターの上に置かれていた私の右手を、大きな手でそっと包み込んだ。
「レ、レオンさん……?」
「お疲れ様。……よく頑張ったな」
普段は無表情な彼の瞳が、ひどく甘く、優しく和らいでいる。
彼は剣ダコのある親指で私の手の甲をそっと撫でると、そのままゆっくりと、私の指と自分の指を絡めるようにして、強く握りしめた。
まるで、私のこの計算ばかりしてきた手を、世界で一番尊いものだとでも言うように。
熱い体温が指の隙間から伝わってきて、私の心臓がトクン、トクンと大きく跳ねる。
新しく得た『受付嬢』という肩書きと、最強の剣士からの不器用な優しさに包まれながら、私は熱くなった頬を隠すように、そっと俯くことしかできなかった。




