第10話 銀貨三枚のズレから、ギルドの横領疑惑が始まりました
私が仮採用の腕章を外し、正式に『受付嬢兼記録係』という肩書きをもらってから数日が経った。
怒涛の月末決算期を乗り越えたルーンベル冒険者ギルド支部は、一時的な落ち着きを取り戻している。
静かな書庫の中で、私は古い羊皮紙の匂いに包まれながら、山積みになった過去の報酬台帳と睨み合っていた。
今回の私の任務は、雑然と保管されていた過去三年分の記録を、危険度やパーティごとに整理し直すことだ。
パチ、パチ、パチ……。
手元の簡易そろばんを弾き、古い台帳の数字を新しい紙に転記していく。
現代の会社でも、年度末の帳簿整理は私の得意分野だった。誰もやりたがらない地味な作業だけれど、数字がピタリと合う瞬間の静かな快感が好きなのだ。
しかし――三ヶ月前のC級パーティの報酬記録に差し掛かった時、私の指がピタリと止まった。
「……数字が、合いません」
微かな違和感。
私は眉をひそめ、台帳のページを前後にめくり返した。
討伐部位の数と、規定の買取単価。そこにギルドの仲介手数料を引いた最終的な支払い額。計算式は間違っていないように見える。
けれど、私の暗算が弾き出した正しい金額と、台帳に『支払い済み』として記されている金額の間に、ほんのわずかなズレがあった。
「銀貨、三枚……」
たったそれだけの差額だ。冒険者が酒場で一杯飲めば消えてしまうような、少額の端数。
計算ミスだろうか? 私は他のページも急いで確認した。
パチパチパチッ。
別の日の、D級パーティの記録。銀貨二枚と銅貨五枚の不足。
さらに別の日の記録。銀貨三枚の不足。
ランダムに発生しているわけではない。ズレが生じているのは、きまって『身寄りがない若手』や『文字が読めない者が多いパーティ』の報酬だけだった。
彼らなら、複雑な歩合計算をごまかされても気づかない。気づいたとしても、ギルドの権威を前に強く抗議することはできない。
さらに私の目を引いたのは、そのズレが生じているページの端に、小さく押された『特殊な処理印』だった。
これは、先日カイルさんが持ち込んだ、あの不自然な『月光草の大量採取依頼』――裏にバルザック子爵が絡んでいると推測したあの依頼書に押されていた印と同じ形をしている。
(これは、単なる計算ミスじゃない。意図的な『横領』だわ)
ぞくりと、背筋に冷たい汗が伝った。
現代の会社でも、経費の不正請求や端数の着服は、組織の腐敗の第一歩だ。誰かが、立場の弱い冒険者たちから少しずつ血と汗の結晶をかすめ取っている。
私は台帳を抱え、書庫を出て足早に一階のカウンターへと向かった。
ギルドの奥にある会計専用の窓口。そこに座っているのは、神経質そうな細い目をした中年の男性――会計係のドルンさんだった。
「あの、ドルンさん。少しよろしいでしょうか」
「あぁ? なんだ、新人の受付嬢。俺は忙しいんだ」
不機嫌そうに顔を上げたドルンさんに、私は該当の台帳を開いて差し出した。
「過去の台帳の整理をしていたのですが……ここと、ここの報酬額。計算が合いません。規定の額より、銀貨三枚ほど少なく支払われているようですが」
その瞬間、ドルンさんの細い目がカッと見開かれた。
額にじわりと嫌な汗が浮かぶのが見える。
「な、何を言っている! それは……あー、そう、魔石の純度が低かった時の、減額処理だ!」
「減額処理の場合は、備考欄に理由を記載する決まりになっています。それに、魔石の納品がない薬草採取の依頼でも、同じように端数が削られていますが」
「し、素人が口出しするな! ギルドの会計には、お前のような小娘には分からない複雑な処理があるんだよ!」
バンッ! と机を叩き、彼は威圧的に立ち上がった。
周囲の職員たちが何事かと振り返る。
「……そうですか。私の勘違いでしたら、申し訳ありません」
私は深く追求せず、静かに頭を下げて台帳を引き取った。
これ以上ここで騒ぎ立てるのは得策ではない。横領をしている人間は、追い詰められれば必ず証拠を隠滅しようとする。現代の事務員として、その程度の危機管理は身についている。
私は踵を返し、そのまま迷うことなく二階の支部長室へと向かった。
「……なるほどな。立場の弱い連中から、気づかれない程度の端数を抜いていたってわけか」
支部長室の重厚な机越しに、私の報告を聞いたヴィクトルさんは、低く唸りながら無精髭を撫でた。
その灰色の瞳には、ギルドの長としての静かな怒りが燃えている。
「支部長。これはまだ氷山の一角です。不自然な端数処理の裏には、あの特殊な印……バルザック子爵家に関連する怪しい金の流れが絡んでいる可能性があります」
「お前さん、そこまで読んでいるのか。……だが、あのドルンを追い詰めるには、その台帳のズレだけじゃあ証拠として少し弱えな。言い逃れされるかもしれん」
「わかっています」
私は手元の台帳を胸に抱きしめ、真っ直ぐにヴィクトルさんを見据えた。
「だから、私に調べさせてください。過去の記録と、現在の金の流れ。すべての数字の裏付けを取ります。……事務員は、数字で嘘を見抜きますから」
戦えない私には、剣で悪を討つことはできない。
けれど、紙の上の嘘を暴き、組織の膿を出すことならできるのだ。
「……わかった。俺はお前さんの計算を信じる。だが、絶対に無理はするなよ。嗅ぎ回っているとバレれば、お前さんの身が危ねえ」
「はい、念のため、内密に進めます」
ヴィクトルさんの力強い言葉に背中を押され、私は静かに支部長室を後にした。
一階へ降りる薄暗い階段の踊り場。
そこで、待ち伏せしていたかのように壁に寄りかかっていた人影が動いた。
「……おい」
ドルンさんだった。
彼は先ほどの焦った様子とは打って変わり、蛇のように冷たい目で私をねめつけた。
「支部長に何を吹き込んだかは知らんがな……新人が、余計なところまで鼻を突っ込むなよ」
彼はすれ違いざま、私の耳元で低く凄んだ。
「これ以上調べるなら気をつけな。数字で困る奴がいるんだ」
それは、明確な脅迫だった。
彼の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は抱えた台帳をぎゅっと握りしめた。
ギルドの裏に潜む暗い影。ただの元事務員である私が、この異世界の深い闇と戦う日々の、それが始まりだった。




