第11話 王都の貴公子が、私の台帳を欲しがりました
会計係ドルンさんの不正の証拠を掴むため、私が過去の台帳の再計算と整理を黙々と進めていた、その日の午後。
ルーンベル冒険者ギルド支部に、王都から突然『監査補佐』を名乗る人物が視察に訪れたことで、ギルド内は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
身分の高い貴族の唐突な来訪への戸惑いと、自分の地味な事務仕事がまさかそんな雲の上の人に絶賛されることになるなんて、ただの元事務員である私には知る由もなかったのだ。
「……ひどい有様ですね。ルーンベル支部の記録管理はずさんと聞いていましたが、ここまでとは」
ギルドの中央で、優雅なため息をついたその人は、周囲のむさ苦しい冒険者たちとは完全に別次元の存在感を放っていた。
太陽の光を編み込んだような美しい金髪に、新緑を思わせる鮮やかな緑の瞳。
上質な純白の外套を羽織り、腰には見事な装飾が施された細身の剣を下げている。
王都から来たという監査補佐――アシュレイ・グランヴェール様。
伯爵家の次男であり、若くして王都本部の重職に就く、絵に描いたような貴公子だった。
「これでは、どのパーティがどの危険地帯に向かっているのか、即座に把握できないでしょう。未処理の羊皮紙が山積みになっているなど、言語道断です」
アシュレイ様の冷たくも理知的な声に、セルマ主任をはじめとする古参の職員たちが青ざめて俯いている。
特に、会計窓口の奥にいるドルンさんは、滝のような汗を流して震えていた。不正を行っている身からすれば、王都からの突然の監査など死刑宣告に等しいだろう。
アシュレイ様は呆れたように首を振り、メインカウンターから視線を外した。
そして、ふと――少し離れた場所にある私の作業机で、ピタリと足を止めた。
「……おや?」
彼が目を留めたのは、私がここ数日かけて整理し直していた『過去の報酬台帳』と、冒険者たちに配るために手書きで量産していた『補給・行程チェック表』の束だった。
アシュレイ様は白手袋に包まれた手で、私のまとめた真新しい台帳をそっと手に取った。
緑の瞳が、素早くページの上を滑っていく。
「これは……」
彼の目が、わずかに見開かれた。
「危険度別の分類、パーティごとの負傷履歴の紐付け、さらには地域別の魔物出現傾向までが一目でわかるようにまとめられている。……無駄な装飾を一切省いた、完璧な数字の羅列だ。それにこの『四角い枠』が書かれた表は……冒険者自身に不足物資を確認させるためのものか?」
アシュレイ様は弾かれたように顔を上げ、周囲を見回した。
「この台帳と表をまとめたのは、誰ですか?」
ギルド中が静まり返る中、皆の視線が一斉に私に突き刺さった。
私はビクッと肩を震わせ、手元の簡易そろばんを抱きしめたまま、おずおずと一歩前に出た。
「あ、あの……私ですが。何か、計算に間違いがありましたか……?」
現代の会社では、勝手にフォーマットを変えたり整理したりすると、「余計なことをするな」と怒られることが多かった。
またやってしまったかもしれない。そう思って身構えた、次の瞬間だった。
アシュレイ様は私の目の前までツカツカと歩み寄ると、なんと片膝をつき、まるで物語の騎士が姫君にするように、私の右手をそっと取ったのだ。
「えっ……? あ、あの……アシュレイ様?」
「素晴らしい。……この台帳は、芸術だ」
彼は私の手を両手で大切に包み込むと、熱を帯びた緑の瞳で見上げてきた。
「魔法で書かれたどんな美しい装飾写本よりも、あなたの整理したこの紙束の方が、何百倍も価値がある。これがどれほどの命を救い、ギルドの損失を防ぐことか。……あなたに、心から礼を言いたい」
身分違いの貴公子からの、あまりにもストレートで美しい称賛の言葉。
現代で『アナログさん』と笑われ、誰にも評価されなかった私の地味な事務仕事が、王都の貴族から『芸術』だと絶賛されているのだ。
「と、とんでもないです! 私はただ、数字を合わせて、見やすく並べ替えただけで……」
「ただ並べ替えただけ、と言うのですね。恐ろしい謙虚さだ。……あなたのその頭脳と手は、剣よりも多くの命を救う力を持っている」
アシュレイ様は立ち上がり、私に甘く微笑みかけた。
「ユイ嬢。あなたの価値を、この辺境の支部だけに閉じ込めておくのはあまりにも惜しい」
ふわりと、彼から上品な花の香りが漂う。
至近距離で見つめられ、包まれたままの手から熱が伝わってきて、私の頬はカッと熱くなった。
「っ……」
その時。
ギルドの重厚な扉が、乱暴に開け放たれた。
入ってきたのは、黒竜谷での新たな討伐を終え、魔物の返り血でわずかに革鎧を汚した長身の剣士――レオンさんだった。
彼は足を踏み入れた瞬間、ギルド内の異様な空気に気づいた。
そして彼の視線は、真っ直ぐに私の窓口へと向けられ――美しい金髪の貴族が、私の手を握り、至近距離で微笑みかけている光景を完全に捉えた。
「…………」
ギルド内の空気が、急激に凍りついた。
レオンさんは一言も発しなかった。ただ、その深い青の瞳に、絶対零度の吹雪のような冷酷な光を宿し、ゆっくりと、私たちの方へ向かって歩みを進めてくる。
その歩みの一歩ごとに、圧倒的な殺気と『明確な嫉妬』が、ビリビリと肌を刺すように伝わってくる。
王都の貴公子と、最強の冒険者。
繋がれた私の手と、それを底冷えするような瞳で見つめるレオンさんの視線が交錯し、ルーンベル支部に新たな波乱が巻き起こる予感に、私の心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。




