第5話 私のチェック表で、若手冒険者が無謀な依頼を避けました
ルーンベル冒険者ギルド支部は、今日も朝から荒くれ者たちの熱気と怒声で満ちている。
S級冒険者であるレオンさんから異例の『専属指名』を受けて数日。私の窓口には奇異の視線が向けられることも増えたけれど、私がやるべきことは変わらない。
私は手元の簡易そろばんを弾きながら、この『補給・行程チェック表』が、レオンさん以外の冒険者の命も救えるのかどうか、責任と不安の入り交じった気持ちでカウンターを見つめていた。
「ユイさん! おはようございます! この討伐依頼、受理をお願いします!」
バンッ、と勢いよくカウンターに手をついて身を乗り出してきたのは、栗色の髪を持つ若手冒険者のノアくんだ。
彼はC級に昇格したばかりの、大型犬のように人懐っこくて元気な剣士。後ろには、彼と同じように若い三人組のパーティメンバーが自信ありげに立っている。
「おはようございます、ノアくん。……本日は『岩山地帯での赤毛猪討伐』ですね。確認します」
私は彼から差し出された羊皮紙の依頼書を受け取り、サッと目を通した。
討伐対象、目的地、想定される日数、そして持参する物資のリスト。
現代の会社で、何百枚という伝票や稟議書に目を通してきた私の目は、数字の羅列から『違和感』を瞬時に拾い上げる。
パチ、パチ、と頭の中で透明なそろばんが弾かれた。
「……数字が、合いません」
私は顔を上げ、真っ直ぐにノアくんを見つめた。
「ノアくん、赤毛猪の群れを甘く見すぎています。この申請書に書かれた回復薬の数と、予備の武器の数では、あなたたちは絶対に岩山から帰れません」
「えっ? な、なんでですか? 俺たち、最近調子いいし、赤毛猪の三匹や四匹、気合いでなんとか……」
「気合いでは怪我は治りません」
私はカウンターの下から、先日レオンさんのために作った『補給・行程チェック表』を簡略化した新しい羊皮紙を取り出した。
そこに、インクをつけた羽ペンで素早く数字と四角い枠を書き込んでいく。
「過去の台帳記録によれば、赤毛猪は今の時期、五頭以上の群れで行動します。岩山までの往復六日間。最低でも三回の戦闘が予想されます」
さらさらと、容赦ない数字の現実を紙に刻む。
「ノアくんたちのパーティは前衛特化で、魔法による治癒担当がいませんよね? となれば、被弾時の回復はすべてポーション頼みになります。四人が三回の戦闘でそれぞれ一回ずつ負傷したと仮定して、十二本。不測の事態に備えた予備を含めれば、最低十五本のポーションが必要です。……ですが、申請書には『五本』としか書かれていません」
私の指摘に、ノアくんの後ろにいたパーティメンバーたちが「うっ……」と息を呑んだ。
「おまけに、猪の皮膚は硬く、刃こぼれが頻発するはずです。予備の剣や砥石の申請もゼロ。このままでは、帰り道に魔物に遭遇した場合、あなたたちは戦う手段も回復する手段も失った状態で、岩山を三日間歩き続けることになります」
「そ、それは……」
ノアくんは言葉に詰まり、私の書き出したチェック表と、自分の粗い申請書を交互に見比べた。
C級に上がったばかりで血気盛んな彼らは、自分の実力を過信しがちだ。冒険者の死因の多くは、こうした『物資の計算ミス』と『過信』から生じるのだと、過去の台帳が如実に物語っていた。
「……どうしても、ダメですか? 俺たち、早くB級に上がりたくて……」
すがるように見つめてくるノアくんに、私は首を横に振った。
「ダメです。書類は嘘をつきません」
私はペンを置き、彼の目をしっかりと見つめ返した。
「私には、あなたたちの剣の腕の凄さはわかりません。でも、数字の不足はわかります。……ノアくんたちに、死んでほしくないんです」
現代で無能扱いされていた私が、誰かの命を守るためにできる唯一の戦い方。
私の真剣な声に、ノアくんは少しの間ハッとしたように目を見張り、やがてぽりぽりと気まずそうに頬を掻いた。
「……わかりました。ユイさんがそこまで言ってくれるなら、今日のところは大人しく、薬草採取とゴブリン討伐に変更します。ポーション代、もっと稼がないとですしね」
彼は私の作ったチェック表をじっと見つめた後、「これ、もらっていってもいいですか?」と尋ねてきた。
私が頷くと、ノアくんはそれを大切そうに折りたたみ、パーティメンバーたちと共にギルドを出て行った。
――それから、三日後のことだった。
ギルド内が、にわかに騒がしくなった。
入口の扉が乱暴に開かれ、血まみれになった別のパーティが担ぎ込まれてきたのだ。
「治癒術師を呼んでくれ! 岩山で、赤毛猪の群れにやられた!」
悲痛な叫び声に、受付にいた私とミリアさんが慌てて立ち上がる。
担ぎ込まれたのは、中堅の冒険者パーティだった。彼らはポーションが尽き、刃こぼれした剣を握りしめたまま、命からがら逃げ帰ってきたのだ。
「……あれって、ノアくんたちが受けようとしてた依頼じゃない?」
青ざめた顔で呟くミリアさんの言葉に、私は震える手をぎゅっと握りしめた。
もし、あの時私がノアくんたちを止めていなかったら。あの血まみれの姿になっていたのは、彼らだったかもしれない。
「ユイさんっ!」
ふいに、ギルドの入口から弾かれたように駆け込んでくる人影があった。
依頼から帰還したばかりのノアくんだ。彼は担ぎ込まれた負傷者たちを見て顔を真っ青にした後、一目散に私のカウンターへと走ってきた。
「ノアくん……怪我は!?」
「俺たちは大丈夫です。それより、ユイさんっ!」
ダンッ、とカウンターに手をつき、ノアくんは勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございました! ユイさんが俺たちを止めてくれなかったら……俺たち、絶対にああなってました。ポーションの数も、武器の予備も、ユイさんの計算通りでした!」
顔を上げた彼の瞳には、少しの涙と、真っ直ぐな尊敬の色が浮かんでいた。
大型犬のように無邪気だった彼が、自分の命の重さと、紙の上の数字の恐ろしさを実感した顔だった。
「俺、もっと強くなります。ユイさんに、安心して送り出してもらえるような冒険者に……!」
ノアくんは懐から、三日前に私が渡したあの『補給・行程チェック表』を取り出した。
端が少し擦り切れたその紙を、彼は両手でぎゅっと握りしめる。
「ユイさんのこの紙……俺、一生のお守りにします!」
大声で宣言されたその言葉に、ギルドの喧騒がふっと止まった。
周囲の冒険者たちが、驚きと共に私のほうを一斉に振り向く。
ただの事務員だった私の作った紙切れが、異世界で、確実に誰かの命を繋ぎ止めていた。




