第4話 前例がないと叱られた私を、最強剣士が専属指名しました
仮採用の本格的な評価期間が始まって早々、私はギルドの奥にある小さな応接室に呼び出されていた。
目の前で腕を組んでいるのは、受付主任のセルマさんだ。
今回の問題は、私が先日、S級冒険者であるレオンさんの討伐依頼の手続きを勝手に止めてしまったこと。
彼女の鋭い視線を浴びながら、私は膝の上でぎゅっと両手を握りしめていた。
現代日本で働いていた頃、出過ぎた真似をして怒られた時の記憶が蘇り、胃のあたりがキリキリと痛む。
「……白石さん。あなたがレオン様の依頼書の不備を見抜き、結果的に命を救ったことには感謝します」
静かな応接室に、セルマ主任の理知的な声が響く。
「ですが、仮採用の身である受付補助が、独断でS級案件の受理を保留にするなどという『前例』は、このルーンベル支部にはありません。あなたの行動は、越権行為です」
彼女の言葉は、正論だった。
組織を回す上で、個人の独断は和を乱す。それは日本の会社でも、この異世界エルセリアのギルドでも同じなのだ。セルマ主任は私をいじめているわけではなく、受付全体を管理する責任者として、秩序を守ろうとしているだけだ。
「次からは、何か気になることがあっても必ず私を通しなさい。……勝手な行動は控えるように」
その言葉に、胸の奥がチクッと痛んだ。
『君の仕事じゃないんだから、余計なことはしないでくれる?』
前の職場で、古い台帳のミスを直した時に上司から言われた言葉がフラッシュバックする。
私はいつもそうだ。数字や紙の違和感に気づいてしまう。放っておけなくて手を出して、結果的に組織のルールから外れて疎まれる。
どうせ無能な私には、分不相応なのだと。
けれど――今回は、違う。
あのまま見過ごしていれば、確実に一人の命が失われていた。
「……申し訳ありません」
私は震えそうになる声を必死に抑え、顔を上げた。
「前例はありませんが、ギルド規約を確認したところ、受付補助が書類の不備を指摘して保留を『提案』することを禁止する条項はありませんでした」
「なっ……」
「数字が合わなかったんです。書類は嘘をつきません。私は、明らかな計算のズレを見過ごして、冒険者の方を死地に送り出すことはできません。……念のため、です」
言い切った後、自分の心臓が早鐘のように打っているのがわかった。
なんてことを言ってしまったのだろう。これでは仮採用どころか、初日でクビになってしまうかもしれない。
セルマ主任が目を見開き、何かを言い返そうと息を吸い込んだ。
その時だった。
「――まあ、待てやセルマ」
応接室の扉が乱暴に開かれ、大きな影が入り込んできた。
ヴィクトル支部長だ。そして彼の背後には、出発の準備を整えたはずのレオンさんが静かに立っていた。
「支部長! それに、レオン様まで……」
セルマ主任が慌てて立ち上がる。
ヴィクトルさんは無精髭を撫でながら、私の隣にドカッと腰を下ろした。
「ユイの奴が規約を持ち出して反論するとはな。だが、嬢ちゃんの言う通りだ。規約違反じゃねえ」
「しかし、それでは指揮系統が乱れます! 新人が勝手な判断を下す前例など――」
「なら、今日からそれを『前例』にすればいいだけの話だ」
ヴィクトルさんはニヤリと笑い、豪快に言い放った。
「結果として、ルーンベル支部は最強の冒険者を失わずに済んだ。数字のズレを見抜く奴が受付にいる。こりゃあ、冒険者にとっちゃ最高のお守りじゃねえか。越権行為だなんだと目くじら立てる前に、使えるもんは使うのがギルドってもんだろ?」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。
私のやったことを、はっきりと肯定してくれた。ルールを破った面倒な新人ではなく、命を守るための力として評価してくれたのだ。
セルマ主任は唇を噛み締め、悔しそうに目を伏せた。
彼女もわかっているのだ。私の指摘が正しかったことも、ギルドの古いシステムに限界がきていることも。ただ、責任者としての立場がそれを素直に認めさせないだけ。
そこへ、ずっと黙っていたレオンさんが静かに一歩前に出た。
「……セルマ主任」
低く、よく通る声に、室内の空気がピンと張り詰める。
彼は懐から、昨日私が書いた『補給・行程チェック表』を取り出し、テーブルの上に置いた。
「俺はこれから、黒竜谷へ向かう。新しいルートでの補給物資は、彼女が計算し、リスト化してくれた通りに全て揃えた」
その紙には、私が書いた四角い枠の中に、几帳面な印が一つずつ書き込まれていた。
彼はそれがいかに重要なものかを語るように、そっと紙に触れる。
「……今後、俺の依頼の確認や手続きは、全て彼女――ユイに頼みたい」
「えっ……?」
間の抜けた声を上げてしまったのは、私だった。
セルマ主任も、信じられないものを見るようにレオンさんを見上げている。
「レ、レオン様? それは、どういう……」
「言葉通りの意味だ。俺は彼女の計算を信じる。だから、俺の【専属】として彼女を指名する」
ギルドにおいて『専属指名』というのは、本来、長年信頼関係を築いた熟練の冒険者とベテランの受付嬢の間でしか結ばれないものだ。
仮採用されたばかりの、しかも何の力もない元事務員の私を、S級冒険者が専属指名するなんて。
「あ、あの、レオンさん。私はまだ仮採用で、その、色々と不慣れですし……」
私が慌てて止めようとすると、レオンさんは私の目の前まで歩み寄り、ピタリと立ち止まった。
長身の彼に見下ろされると、鼓動がさらに跳ね上がる。
「不慣れで構わない。君が紙と数字で俺の背中を守ってくれるなら、俺は君のいる窓口から依頼を受ける」
深い青の瞳が、私だけを真っ直ぐに捕らえていた。
そこにあるのは、圧倒的な信頼。
剣も魔法も使えない私の、ただの地味な事務能力を、彼は命を預けるに足る力だと認めてくれたのだ。
「……俺以外の奴に、あまりその力を見せびらかさないでほしいがな」
ぽつりと、微かに眉を寄せて彼がこぼした言葉は、誰にも聞こえないほどの小さな声だった。
けれど、すぐ近くにいた私の耳には確かに届いて、頬がじわりと熱くなる。
応接室の外――ギルドのホールから、「おい聞いたか!」「あのレオンが専属指名!?」という冒険者たちの大きなざわめきが響いてくる。
現代では誰にも評価されなかった私の計算と書類の整理が、この異世界で、とんでもない事態を引き起こそうとしていた。




