第36話 血まみれの帰還者を前に、私は受付を離れませんでした
「敵の群れの中に、想定外の『変異種』が混ざってる! オーガの倍以上ある巨体で、魔法まで撃ってくるバケモノだ! レオンの旦那が一人で押さえ込んでるが、このままじゃ……第一班の撤退時間が保たないぞ!!」
血走った目を剥いた斥候からの伝令がギルド内に響き渡った瞬間、私の心臓は冷たい手で鷲掴みにされたように凍りついた。
過去の台帳にも存在しない、完全に計算外のイレギュラーな暴力。そんなものの足止めを、レオンさんがたった一人で引き受けている。
私が渡した『絶対撤退条件のリスト』があるとはいえ、相手は想定を遥かに超える巨大な魔物だ。彼がいくら最強のS級剣士だとしても、限界を超えれば命を落とす。
(レオンさん……っ!)
気がつけば、私はカウンターから身を乗り出し、ギルドの扉の向こう――怒号と地響きが交錯する西門へと駆け出そうとしていた。
彼が血を流しているかもしれない。今すぐ助けに行きたい。そんな強い衝動が、理性を焼き尽くそうとしていたのだ。
「ユイさん! だめよ、どこに行くの!」
私の腕を強く掴んで引き留めたのは、ミリアさんだった。
彼女の必死な声で、私はハッと我に返った。
剣も魔法も使えない私が、最前線に飛び出したところで何ができる?
ただの足手まといになるだけだ。レオンさんの足を引き引っ張り、最悪の場合は彼ごと命を落とすことになる。
それだけではない。
(私がここを離れれば……このギルドの『後方支援』が崩壊してしまう)
ギルドのホールには、今も私が作成した『トリアージ表』に従って、次々と負傷者が運び込まれている。私が在庫の帳簿を管理しなければ、前線へのポーション補給も途絶える。
彼が最前線で命を懸けて繋ごうとしている街の人々や仲間の命が、私が持ち場を放棄した瞬間に、ここから零れ落ちていくのだ。
「……っ。ミリアさん、ありがとうございます。私は……大丈夫です」
私は震える拳をギュッと握りしめ、自分自身の頬を両手で強く叩いた。
涙を流している暇はない。
事務員としての私の戦場は、ここだ。彼が帰ってくる場所を守るという約束を、私が破るわけにはいかないのだから。
「変異種の出現により、前線の負傷ペースが想定を大きく上回っています! このままでは第一班が全滅します!」
私は手元の『簡易そろばん』を弾きながら、カウンターの上の巨大な羊皮紙――戦力ローテーション表――に赤いインクで線を引いた。
現代の会社で、プロジェクトの炎上時にエクセルのスケジュールを何度も引き直したように。私は頭の中で、冷徹に数字を修正していく。
「第二班の投入を三十分前倒しします! 今すぐ彼らを西門へ向かわせ、第一班の撤退を援護させてください! 同時に、ポーションの消費量も倍増します。地下倉庫の第三班から補給部隊を臨時で抽出し、輸送のペースを上げます!」
パチ、パチ、パチ、ジャラッ。
弾かれるそろばんの音に合わせて、私の指示が次々と飛ぶ。
セルマ主任が「聞いたわね! ユイさんの指示通りに動くのよ!」と叫び、ギルド全体が新たなスケジュールに則って激しく動き始めた。
やがて、前線のローテーションが回り、泥と血にまみれた第一班の冒険者たちが、次々とギルドへ後退してきた。
どいつもこいつも、息も絶え絶えの凄惨な有様だ。
「……っ、ユイさん!!」
その集団の中から、足を引きずりながら私のもとへ駆け寄ってきたのは、若手冒険者のノアくんだった。
彼の革鎧は無残に引き裂かれ、額からは血が流れている。
「ノアくん! 無事で……レオンさんは、どうなったんですか!?」
私が身を乗り出して尋ねると、ノアくんは悔しそうに顔を歪めながらも、真っ直ぐに私の目を見た。
「レオンさんが……あのバケモノを一人で引き付けてくれたおかげで、俺たちは全員、生きて撤退できました。……でも、彼はまだ、一人で前線に残って……っ」
ノアくんの言葉に、私の目の前が真っ暗になりかけた。
「でも、レオンさんが……ユイさんに伝えてくれって、最後に言ってました!」
「えっ……」
「『帰る。君のところへ』って……! あの人、絶対に死ぬ気なんてありませんでした! だから、信じて待っててください!」
ノアくんの叫びに、堪えていた涙がポロポロと零れ落ちた。
彼は私が渡した『紙』を胸に忍ばせ、あの過保護な約束を守るために、絶望的な戦況の中でも生きる意思を手放していなかったのだ。
「……はいっ。彼が帰ってくるまで、私は絶対にここを離れません!」
私は涙を乱暴に袖で拭い、再びペンを握り直した。
ノアくんたち第一班を休憩スペースへ誘導し、ポーションを配り、次のローテーションの準備を整える。
そして、果てしなく続くかと思われた絶望の夜が、白み始めた頃だった。
東の空から、まばゆい朝陽がルーンベルの街を照らし出す。
「……変異種、討伐完了ォォォッ!!」
西門の方角から、割れんばかりの歓声と、勝利を知らせる合図の鐘が鳴り響いた。
魔物の大群の脅威が、完全に去ったのだ。
「やった……! 終わったわ、ユイさん!」
「俺たち、生き残ったんだ!!」
ギルド内に歓喜の輪が広がり、ミリアさんも泣きながら私を抱きしめてきた。
私も、震える足でカウンターに手をつき、深く安堵の息を吐き出した。
彼が、この街を守り抜いたのだ。
やがて、西門から凱旋してくる冒険者たちの列がギルドに到着した。
ボロボロになりながらも誇らしげな笑顔を見せる彼らを、私たちは拍手で出迎えた。
しかし。
いくら待っても、列の中に、あの見慣れた銀灰色の長身の姿が見当たらない。
「ヴィクトル支部長!」
私は列の最後尾を歩いていた支部長のもとへ駆け寄った。
支部長の顔には、勝利の喜びではなく、重く苦い影が落ちていた。
「支部長、レオンさんは……?」
私の問いに、ヴィクトル支部長はギリッと歯を食いしばり、首を横に振った。
「すまねえ、ユイ。……変異種を仕留めた後、森へ逃げる残党を追って……そのまま、レオンが未帰還だ」
その言葉が、勝利に沸くギルドの空気を、再び絶望の底へと叩き落とした。




