第32話 私がいなくなるかもしれないと聞いて、最強剣士が黙りました
王都ギルド本部から届いた、私を特別補佐として引き抜くという破格の招聘状。
その噂はあっという間にルーンベル支部に広まり、ノアくんやカイルさんが「ユイさんが行くなら自分も行く」と騒ぎ立てる中、私が一番言葉をかけてほしかった人は、ただ静かな沈黙を貫いていた。
ギルドの片隅で、討伐で刃こぼれした愛剣の手入れをしている長身の背中。
私は手元の書類を胸に抱きしめ、おずおずとその背中へと声をかけた。
「……レオンさん。少し、よろしいですか」
銀灰色の髪が揺れ、レオンさんが振り返る。
深い青の瞳が私を捉えたが、すぐにまた手元の剣へと視線を落としてしまった。
「王都からの手紙のことですが……レオンさんは、どう思われますか?」
本当は「行かないでほしい」と言ってほしかった。
戦場に向かう前、『俺は、君のいる窓口に帰ってくる』と約束してくれたのだから。私の受付窓口を、特別だと思ってくれていると信じたかった。
しかし、レオンさんの口から紡がれたのは、ひどく冷たく、突き放すような言葉だった。
「……君の人生だ。より高く評価される場所へ行くべきだろう」
「え……」
「君のその類まれな計算能力や、記録を整える力は、こんな辺境のギルドでくすぶらせていいものではない。王都の中枢に行けば、もっと多くの命を救えるはずだ。……行くべきだ、ユイ」
淡々と告げられる正論に、私の胸の奥がズキリと痛んだ。
私がルーンベルからいなくなっても構わないということ?
私のことはもう、専属の受付嬢として必要ないということなのだろうか。
「……わかりました。お仕事の邪魔をして、申し訳ありません」
視界が滲みそうになるのを必死に堪え、私は逃げるように自分のカウンターへと戻った。
現代の会社でも、私はずっと必要とされていなかった。
この異世界でようやく見つけた私の居場所も、私が勝手に「必要とされている」と思い込んでいただけだったのかもしれない。
そんな惨めな気持ちで、意味もなく台帳のページをめくっていた時だった。
「……ユイちゃん、ひどい顔してるよ。泣きそうじゃないか」
ふわりと甘い香水の匂いが漂い、カウンター越しにカイルさんが顔を覗き込んできた。
琥珀色の瞳はいつものように細められているが、そこにあるのはからかいの色ではなく、呆れたような、そして少しだけ同情するような光だった。
「あのバカ剣士に、心にもないこと言われたんでしょ?」
「心にもないことって……レオンさんは、私にもっと評価される場所へ行けと言いました。私のことなんて、もう……」
「違うよ」
カイルさんは私の言葉を遮り、小さくため息をついた。
「あの男は、S級冒険者だ。死線ばかり潜り抜けてきたからこそ、君の才能の価値を誰よりも理解してる。……だからこそ、自分の我が儘で、君をこんな危険な田舎街に縛り付けるのが嫌なだけさ」
カイルさんの言葉に、私はハッと息を呑んだ。
「本当は誰よりも君を手放したくないくせに。君の安全と未来の幸せを優先して、必死に自分の感情を殺してるんだよ。……不器用すぎて、見てるこっちがイライラするくらいにね」
――君の人生だ。より高く評価される場所へ行くべきだろう。
先ほどのレオンさんの声が、脳内でリフレインする。
あの時、彼は私と目を合わせなかった。彼が剣を握る手は、白くなるほど強く、強く握りしめられていた。
私を突き放したんじゃない。
私を大切に思いすぎるからこそ、泥まみれの自分ごと、この街から私を遠ざけようとしたのだ。
「カイルさん……ありがとうございます!」
私は抱えていた台帳をバンッと机に置き、再びカウンターを飛び出した。
今度は迷わなかった。彼が勝手に引いた理不尽な線引きなど、事務員としての私が完全に論破してやる。
「レオンさん!!」
先ほどと同じ場所で、まだ剣を磨いていた彼のもとへ駆け寄る。
驚いて顔を上げたレオンさんに、私は真っ直ぐに、少し怒ったような声で告げた。
「事務員は、自分の働くデスクを自分で決めます。王都の評価なんて関係ありません!」
「ユイ……? 何を言って……」
「私は、私の意思でここにいます。私が一番働きたい場所は、誰に何と言われようと……あなたが帰ってくる、この窓口なんです!」
私の宣言に、レオンさんは大きく目を見開いた。
彼の中で必死に押さえ込んでいた理性のタガが、音を立てて外れるのがわかった。
「……っ」
ガタンッ、と椅子を蹴倒して立ち上がったレオンさんは、長い腕を伸ばし、私を力強く自分の胸の中へと引き寄せた。
「レオン、さん……っ」
分厚い革鎧越しに伝わってくる、激しい心音。
彼は私の背中に腕を回し、逃がさないとばかりに強く、息が詰まるほど強く抱きしめた。
「……君は、本当に強情だな。俺の我慢を、ことごとく壊していく」
耳元で囁かれる低く掠れた声には、隠しきれない熱と、強烈な独占欲が滲み出ていた。
「……そんなことを言われたら、もう二度と、君を手放せなくなる」
「手放さなくて、いいです。……ずっと、専属でいさせてください」
私が彼の背中にそっと腕を回し返すと、レオンさんは私の髪に顔を埋め、深く、安堵の息を吐き出した。
彼の不器用な沈黙の理由を知り、私たちの距離は、これまでで一番近く、確かなものになった。
彼との甘く熱い余韻を胸に秘めながら、私は自分のデスクへと戻った。
顔の熱を冷ますように、私は大きく深呼吸をして『簡易そろばん』に触れる。
パチ、パチ、パチ。
心を落ち着かせるために、私は先日の『第一波の魔物討伐記録』をもう一度、無心で再計算し始めた。
討伐した魔物の種類、数、そして消費された物資の量。
(……あれ?)
そろばんを弾く手が、ピタリと止まった。
数字の集計結果と、過去の『大災害』の記録を見比べた時、背筋に氷を当てられたような恐ろしい悪寒が走った。
今回討伐された魔物は、機動力の高い狼型やゴブリンなど、いわゆる『軽量級』ばかりだ。
しかし、西の森の生態系において、大繁殖するはずのオーガやトロールといった『重量級』の魔物の討伐報告が、極端に少なすぎる。
「……第一波は、ただの『前衛』……?」
私の口から、絶望的な予測が零れ落ちる。
そうだ。足の速い魔物が先に街に到達しただけで、足の遅い本隊は、まだ森の中から一歩も出ていないのだ。
本当の大群(本隊)が、まだこのルーンベルに向かって迫ってきている。
終わっていなかったのだ。私と彼の帰る場所を脅かす、本当の災害は、すぐそこまで牙を剥いてきていた。




