第30話 貴族の不正を暴いた日、受付嬢の名前が王都に届きました
「魔物の数が、想定の倍以上いるんだ……っ! 森の奥から、見たこともない巨大な魔物が次々と……! このままじゃ、レオンの旦那たちごと、西門が突破されるぞ!!」
血まみれになった伝令の絶叫が、ルーンベル冒険者ギルド支部に響き渡った。
西門の防衛線が決壊の危機に瀕している。その事実は、後方で避難誘導を行っていた私たち職員や、非戦闘員の間に恐ろしい絶望をばら撒いた。
「レオンさんが……そんな……」
ミリアさんが顔面を蒼白にし、口元を震わせる。
私の心臓も、早鐘のように打ち鳴らされていた。最強の剣士である彼が突破されるということは、この街が魔物に蹂躙されることを意味する。
怖い。足がすくむ。
戦えない私には、どうすることもできない圧倒的な暴力の壁。
(……いいえ。私にできることは、まだあるはずです)
私はギュッと目を閉じ、手元にある『簡易そろばん』の冷たい木の珠に触れた。
パチ、パチ、パチ。
指先で弾くその音が、パニックになりそうな私の脳内を冷水のように鎮めていく。
私は現代の会社で、プロジェクトが炎上し、現場が崩壊しかけた場面を何度も見てきた。そんな時、事務方がパニックになれば組織は完全に終わる。
現場が混乱している時こそ、後方支援は冷徹なまでに『数字と論理』で動かなければならないのだ。
「伝令さん! 聞いてください!」
私はカウンターから身を乗り出し、へたり込んでいた伝令の冒険者を強い声で呼びつけた。
「今すぐ西門に戻り、ヴィクトル支部長とレオンさんに伝えてください。『第一防衛線を放棄し、旧市街の入り口である大通りまで計画的撤退を行え』と!」
「て、撤退!? でも、街の中に魔物を入れるなんて……」
「持ち堪えられない場所で全滅するよりマシです! 旧市街の大通りは道幅が狭く、魔物の大群が横に広がれません。……そこを『第二防衛線』とします」
私はカウンターの上に街の地図を広げ、赤いインクで素早く新しい防衛ラインを引いた。
「ミリアさん! 地下倉庫にある予備のポーションと魔力回復薬、すべて出し切ってください! 出し惜しみはなしです。私が組んだ補給班のローテーションを前倒しし、第二防衛線の後方へ全物資をピストン輸送します!」
在庫の出し渋りは、命の出し渋りだ。
私は台帳の残数を頭の中で弾きながら、最も効率的な撤退ルートと物資の配置図を書き上げ、それを伝令の胸に押し付けた。
「これを支部長に! 書類の通りに動けば、絶対に部隊を崩壊させずに下がれます! 行って!」
「わ、わかった! 頼むぜ、受付嬢!」
伝令が血の滲む足で再び駆け出していくのを見送り、私は祈るように両手を組んだ。
(レオンさん。どうか、私の引いた撤退ラインまで下がってください。……生きて)
その時だった。
「……素晴らしい。賞賛の言葉も尽き果てるほどの、完璧な危機対応能力だ」
背後から、静かな拍手の音が聞こえた。
振り返ると、王都からの監査補佐であるアシュレイ様が、私を見つめて立っていた。
彼の緑の瞳には、かつてないほどの熱と、圧倒的な才能に対する戦慄の色が浮かんでいる。
「アシュレイ様……。王都への緊急通信は……」
「ええ。今しがた、本部のトップと直接通信を終えたところです」
アシュレイ様は優雅に微笑み、私の手を取った。
「ユイ嬢。あなたが提出してくれた『過去の不正台帳』と『避難民の空白地帯』を示す告発書類。……あれは、あまりにも完璧すぎた。王都本部の重鎮たちも、あの数字の証明にはぐうの音も出ませんでしたよ」
彼は言葉を切り、ギルドの窓の外――遠く西の森の方角へと鋭い視線を向けた。
「たった今、王都本部の名において、バルザック子爵の身柄拘束と領地没収の決定が下されました。……人間の悪意は、あなたの作った紙切れの束によって、完全に裁かれたのです」
その報告に、私はホッと長く息を吐き出した。
これで、背後からギルドを脅かす存在はいなくなった。若手冒険者たちを不当に死地へ送り込んでいた元凶を、事務員としての私の仕事で、ついに討ち果たしたのだ。
「ありがとうございます、アシュレイ様。あなたが動いてくださったおかげです」
「お礼を言うのは私の方です。……そして、もう一つ報告があります」
アシュレイ様は私の手に自分の手を重ね、至近距離で甘く囁いた。
「王都のトップたちは、子爵の陰謀をすべて数字だけで暴き、防衛戦の兵站まで完璧に管理している『白石結衣』という名前に……多大な関心を示していますよ」
「えっ……」
「この騒動が落ち着いたら、王都からの正式な招聘状が届くでしょう。……あなたのその類まれなる頭脳は、国が放っておかない」
アシュレイ様の言葉は、ただの称賛を超えた、逃れられない運命の宣告のようだった。
現代日本で「アナログさん」と無能扱いされていた私が、異世界の王都から必要とされている。
それは、事務員としてこれ以上ない最高の評価だった。
「……前線から伝令!!」
再び、ギルドの扉が開かれた。
飛び込んできたのは、先ほどとは別の若い冒険者だ。
「第二防衛線での陣形再構築、完了しました! ユイさんの指定した補給ルートのおかげで、ポーションが尽きる前に部隊を下げられました!」
「レオンさんは!? レオンさんは無事ですか!?」
私が身を乗り出して叫ぶと、冒険者は力強く頷いた。
「レオンの旦那が、最後尾で一番デカい魔物の足止めをしてくれました! 今は第二防衛線の最前列で、支部長たちと一緒に群れを押し留めています! 戦線は、完全に安定しました!」
その報告に、ギルド内に残っていた非戦闘員たちから、わぁっと歓声が上がった。
ミリアさんが泣き崩れるようにその場にしゃがみ込む。
私も、張り詰めていた糸が切れたように、目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
生きてる。彼が、生きている。
私の作った撤退の書類が、あの過保護な約束が、最強の剣士を死地から繋ぎ止めたのだ。
「ユイ嬢。……どうやら、あなたの思い人は無事のようですね」
アシュレイ様が、少しだけ寂しそうに目を細めて呟いた。
「……はい」
私は涙を袖で乱暴に拭い、顔を上げた。
子爵の不正は裁かれた。けれど、西門でのレオンたちの死闘はまだ続いている。魔物を一匹残らず駆逐するまで、この災害は終わらない。
「私はここに残ります」
私は手元の簡易そろばんを握り直し、カウンターの向こう――レオンさんが戦っている戦場へと真っ直ぐに視線を向けた。
「彼らが安心して戦えるように。……私はこの窓口で、彼が帰ってくる場所を守り続けます」
戦えない受付嬢の、紙と数字を武器にした激動の防衛戦。
私は自分の居場所を確かめるように、再びパチリと、そろばんの珠を弾いた。




