第28話 最強剣士は、私の判断を疑わなかった
ルーンベル冒険者ギルド支部のホールは、西の森から溢れ出した魔物の大群を迎撃するための準備で、かつてないほどの怒号と熱気に包まれていた。
ヴィクトル支部長の指揮のもと、武器やポーションを抱えた冒険者たちが次々と西門へと向かって駆けていく。
これから彼らが向かうのは、人の手で意図的に引き起こされた、最悪の大災害の最前線だ。
戦えない私には、彼らと一緒に剣を振るうことはできない。
彼らを死地に送り出す恐怖で足が震えそうになるのを必死に抑え込み、私は事務員としての執念だけでカウンターに立ち続けていた。
私には、まだやらなければならない『最後の事務手続き』が残されている。
「……レオンさん!」
最後尾でギルドを出ようとしていた、銀灰色の髪を持つ長身の背中。
最強のS級剣士として、もっとも過酷な戦場に立つはずのレオンさんを、私は大きな声で呼び止めた。
彼はピタリと足を止め、振り返る。
その深い青の瞳には、戦場へ向かう剣士の研ぎ澄まされた冷たい光が宿っていたが、私を見た瞬間、ふっとその鋭さが和らいだ。
「ユイ。……どうした」
彼が私の窓口まで戻ってくる。
私は震える手を隠すように、急いで書き上げた一枚の羊皮紙を彼に差し出した。
「これを、持っていってください」
レオンさんは無言でその紙を受け取り、視線を落とす。
そこに書かれているのは、彼が過去の討伐で負傷した際のデータと、今回の異常な規模の魔物群の予想数を照らし合わせて私が独自に算出した、新しい『絶対撤退条件のリスト』だ。
「……前回の黒竜谷の時よりも、条件が厳しいな」
紙を見たレオンさんが、わずかに眉を寄せた。
無理もない。そこには『ポーションの残りが五本を切った時点』『剣の刃こぼれが三ヶ所を超えた時点』『連戦による疲労で、剣が普段より重く感じた時点』など、最強の彼にとっては過保護すぎるほどに早い撤退のラインが引かれていた。
「はい。今回は、ただの討伐ではありません。地形と数から見て、確実に長期戦の消耗戦になります」
私は拳をぎゅっと握りしめ、彼の瞳を真っ直ぐに見上げた。
「レオンさん。この紙に書かれた条件を一つでも超えたら、迷わず撤退してください。……街がどうなろうと、防衛線が突破されそうになろうと、必ず引いてください」
私のその言葉に、隣の窓口で避難誘導の準備をしていたミリアさんがハッと息を呑む音が聞こえた。
冒険者ギルドの受付嬢が、街を見捨ててでも逃げろと言っているのだ。本来なら、許される発言ではない。
レオンさんも少しだけ驚いたように目を丸くし、私を見つめ返した。
「……街がどうなろうと、か。それは、ギルドの受付嬢としての指示か?」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「あなたを専属で担当する、白石結衣からの個人的な指示です。……あなたの命が、最優先ですから」
私の身勝手なエゴかもしれない。
それでも、私は彼に生きて帰ってきてほしかった。ただの紙切れ一枚で彼の命を繋ぎ止められるのなら、私は何度だって厳しい条件を押し付ける。
沈黙が落ちた。
やがて、レオンさんの無表情だった口元に、微かな、けれどひどく甘く優しい微笑みが浮かんだ。
「……わかった。俺は、君の判断を疑わない」
彼はその羊皮紙を丁寧に折りたたむと、分厚い革鎧の内側――前回と同じ、心臓に一番近い胸のポケットへと、大切そうにしまった。
「君が引けと言うなら、俺は必ず引く。……死地へ赴く冒険者にとって、これほど心強いお守りはない」
レオンさんは大きな手を伸ばし、私の頬をそっと、包み込むように撫でた。
彼の指先にある硬い剣ダコの感触と、熱い体温。それが、私の不安を溶かすように伝わってくる。
「……必ず、君のいるこの窓口に帰ってくる」
低く、甘い誓いの言葉。
それは、ただの冒険者と受付嬢の関係を超えた、一人の男としての強烈な本命感と決意だった。
私は込み上げてくる涙を必死に堪え、彼の手のひらに自分の手を重ねた。
「……はい。お待ちしています」
レオンさんは深く頷くと、今度こそ振り返ることなく、西門へと続く戦場へと駆け出していった。
彼の背中が見えなくなるまで見送った後、私は手の甲で乱暴に目元の涙を拭い去った。
泣いている暇はない。
私が彼を守るためにできるのは、後方の支援を完璧に回し、彼が帰ってくる場所を死守することだけだ。
「ミリアさん! 非戦闘員の避難リストと、地下倉庫の物資在庫表を持ってきてください!」
私は振り返り、残された職員たちに向けて声を張り上げた。
「これより、避難者のブロック分けと、前線へのポーション補給のローテーションを組みます! 一人も漏れなく、無駄なく回しますよ!」
「は、はいっ! ユイさん!」
カウンターの上に白紙の羊皮紙を広げ、頭の中で膨大な数字の表を展開する。
前線では大災害との血みどろの戦いが始まった。
そしてこの安全な受付窓口でも、紙と数字とペンを武器にした、事務員としての熾烈な防衛戦が幕を開けたのだ。




