第2話 私の暗算で、最強剣士の討伐計画が変わりました
「君が止めなければ、俺は死んでいたかもしれない」
ルーンベル冒険者ギルド支部の片隅。
S級冒険者であるレオンハルト・ヴァイス――レオンさんの低く真摯な声が、私の耳に真っ直ぐに届いた。
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
彼のような強くて美しい人が、仮採用されて三日目の、ただの『受付補助兼記録整理係』でしかない私に、そんな言葉をかけてくれるなんて。
「そ、そんな……大げさです。私はただ、書類の数字と報告書を照らし合わせただけで……」
「それが誰もできなかった。セルマ主任でさえ、前例と申請書の表面しか見ていなかった」
レオンさんは首を横に振った。
彼の深い青の瞳が、私をじっと見つめている。剣士特有の鋭さはあるものの、そこには明らかな『信頼』の色が浮かんでいた。
「……頼みがある」
「は、はい。何でしょうか?」
「一度保留にした黒竜谷への討伐依頼だが、ルートを変えて再申請したい。君に、補給と行程の再計算を手伝ってもらえないか」
ギルド最強の剣士からの、直接の依頼。
私は戸惑いながらも、抱きしめていた簡易そろばんを握り直した。
「私でよければ、喜んで」
私たちはメインカウンターの端にある、小さな記入用のテーブルへと移動した。
私は新しい羊皮紙を一枚引き寄せ、インク壺の蓋を開けて羽ペンを手に取る。
「では、確認します。東の吊り橋が崩落しているため、西の岩山を迂回するルートになりますね。行商人の記録によれば、片道の行程はこれまでの四日から、さらに三日延びて七日になります」
「ああ。行きに七日、討伐に一日、帰りに七日。合計十五日の行程だ」
レオンさんの言葉を聞きながら、私は頭の中で数字を弾いた。
私の特技は『そろばん一級』と、それに伴う『暗算』だ。
(十五日、一日に三食で……四十五食。いえ、念のため予備を足して……)
「最低でも四十五食分の携帯食料が必要です。ただ、不測の事態や荷物の喪失に備え、一割強の予備を持たせるのが基本ですので、五十食分を推奨します。それから……」
私は羽ペンを走らせ、さらさらと数字を書き込んでいく。
同時に、先ほど確認した過去三年分の魔物討伐台帳の記憶を引っ張り出した。
「今の時期、黒竜谷周辺の魔物は繁殖期に入り、群れで行動します。戦闘回数は想定の倍に増える計算になりますから、治癒薬の数は……」
パチ、パチ、と頭の中で透明なそろばんの珠が弾ける。
私は一切の手を止めず、必要なポーションの数、野営のための魔除け香の数、予備の武器の修繕道具などを、項目ごとに書き出していった。
ただの羅列ではない。
左側に四角い枠を書き、その横に品名と数を書く。いわゆる『チェックリスト』だ。これなら、出発前の荷造りの際に、忘れ物がないか一つずつ印をつけながら確認できる。
「……驚いたな」
ふと、頭上から感嘆の声が降ってきた。
顔を上げると、レオンさんが私の手元を、目を丸くして見つめていた。
「計算道具を使わずに、それほど早く正確に数を弾き出せるとは。魔法の類いか?」
「え? い、いえ! 魔法なんて使えません。ただの暗算です」
現代日本で生きていた頃、私には何の取り柄もないと思っていた。
会社のシステム化についていけず、「エクセルもろくに使えないアナログさん」と陰口を叩かれていた総務・経理事務員。
退職する少し前、私は紙の契約書がこっそり差し替えられていることに気づいたことがあった。
印影のわずかなズレ、日付の筆圧の違い、そして添付された伝票の端数の不自然さ。紙が発する小さな違和感を拾い集め、二重請求のトラブルを未然に防いだのだ。
けれど当時の上司は、「たまたま気づいてよかったね。でも君、システム入力は遅いよね」と笑うだけだった。
私にできるのは、紙を整え、数字を合わせることだけ。
それは誰にも評価されない、無能な人間の地味な作業だと、ずっと自分を卑下してきた。
「……できた、のか」
レオンさんの低い声に、私はハッと我に返った。
いつの間にか、彼がすぐ隣に立って、私が書いた紙を覗き込んでいる。
腕が触れそうなほど近い距離。森の澄んだ空気と、微かな鉄の匂いが鼻先をかすめ、私の心臓がトクンと大きく跳ねた。
「は、はい。これが新しい『補給・行程チェック表』です。この四角い枠は、荷物を袋に詰める時に印をつけるためのものです。こうすれば、抜け漏れを防げます」
私が書き上げた羊皮紙を差し出すと、レオンさんは大きな手でそれを受け取った。
「なるほど……。必要な物資が一目でわかるだけでなく、準備の際の確認まで考えられているのか」
彼は真剣な眼差しで、私の作ったリストを隅々まで見つめている。
その横顔は、彫刻のように整っていて、見惚れてしまいそうになる。
「俺の命を救うだけでなく、こんなにも完璧な計画書まで用意してくれるとは。君は本当に……」
レオンさんは言葉を切り、ゆっくりと私に視線を向けた。
青い瞳が、私だけを真っ直ぐに捕らえて離さない。
ただの事務員だった私が作った、ただの紙切れ。それを、この世界で一番強くて美しい人が、宝物のように大切そうに両手で持っている。
なんだか、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……綺麗な字だな」
ぽつりとこぼれ落ちた彼のその不器用な一言が、私の耳の奥を、くすぐったく熱くさせたのだった。




