第71話 袖の中の心臓
「袖を見せろ」
王の命令に、マイゼルの膝が揺れた。
彼は右腕を引き、左手で袖口を押さえた。
背中が壁にぶつかる。
「駄目です、陛下」
声は喉の奥で潰れていた。
「見せれば、腕が動きます。私の意思では止まりません」
兵が一歩出る。
その瞬間、ラードムが椅子から腰を浮かせた。
「触れるな!」
整っていた声が割れた。
「その男から離れろ。袖に触れるな!」
王がラードムを見た。
「なら、そこを見れば済む」
ラードムは口を閉じた。
王は兵へ顎を動かす。
「押さえろ」
兵二人がマイゼルの肩と腕を押さえた。
「やめろ……やめてくれ……!」
マイゼルの右腕が、押さえられたまま跳ねた。
マイゼルは左手で右腕を掴み、自分の腕を押し戻そうとする。
兵が袖口を裂いた。
布の下を見て、カイリアが息を止めた。
マイゼルの前腕の皮膚の下で、くびれた魔導核が脈を打っていた。
上下二つの小さな核が、細い管で繋がっている。
肉の奥に埋まり、脈に合わせてわずかに震える。
そこから輪状の線が何本も伸び、手首へ絡み、肘の内側へ沈んでいた。
マイゼルの指が動くたび、線が脈より速く縮む。
床に転がったラードムの輪状魔道具にも、同じ命令の流れが残っている。
「マイゼルに埋めたのですね」
ラードムは答えない。
王が問う。
「用途を言え」
「人の中に命令を残すものです」
私はマイゼルの腕を見た。
「判断を鈍らせ、必要な時だけ身体を先に動かす」
マイゼルが歯を鳴らした。
「私は……外せなかった……」
「外そうとすれば、先に命令が動く」
くびれた魔導核が、一度強く脈を打った。
ラードムが椅子の縁を掴む。
「やめろ」
その声にも魔力が混じった。
私の前に張った薄い結界が、声から余計なものを剥がした。
声だけが残る。
魔力は細い流れになり、宙で折れる。
私はそこへ結界を重ねた。
ラードムが息を呑む。
「何をしている」
「あなたが乗せた魔力です」
私はマイゼルの腕へ目を戻した。
「あなたの元へ返します」
くびれた魔導核に、細い亀裂が走った。
ピシ、と乾いた音がする。
マイゼルが膝をついた。
「ぐ……あ……!」
右腕を押さえ、床に片手をつく。
亀裂は核の中央から広がった。
輪状の線が、手首まで一斉に震える。
「戻るはずがない……」
ラードムが立ち上がろうとした。
「一度、声に乗せた魔力だ。聞かせた時点で相手に残る。こちらへ戻るはずが――」
「残すために、つないだのでしょう」
私は言った。
「なら、戻る道もあります」
ラードムの口が止まった。
核の亀裂が深くなる。
マイゼルの目が見開かれた。
彼は床の一点を見た。
そこには何もない。
それでも、戻った記憶は見えていた。
ラードムの声。
聖会の司教印。
封を切られていない薬箱。
ベンデル卿の名を出された時、自分が頷いた瞬間。
戻ってきたのは、痛みだけではなかった。
「最初は……手続きだけだと聞いた」
王が視線を落とす。
マイゼルは床に膝をついたまま、右腕を押さえていた。
その目はラードムではなく、自分の腕を見ている。
「王宮側の失策を、聖会の立会いで片づけられると思った」
喉が鳴る。
「責任を逃れられると……そう思ったんです」
王は遮らない。
マイゼルの声は崩れている。
だが、ラードムの言葉をなぞってはいない。
「ベンデル卿の名なら、誰も止めないと聞いた」
ゼクスが問う。
「誰に聞いた」
「聖会の司教です」
マイゼルは顔を上げられない。
「司教は、封印具を王家から正しい場所へ戻すだけだと言った」
カイリアが息を震わせた。
「説明者を、ここへ……?」
マイゼルは床に伏せたまま、右腕を押さえ込んだ。
「表の応接へ出す前に、別室で整えるだけだと聞いた。その後で王前へ出せば、ソレイユの正式説明になると」
王がラードムを見た。
「答えを用意したのは、お前だな」
ラードムは口を開いた。
言葉は出ない。
「通す順番を用意したのは、マイゼル」
王の声は大きくない。
「そして、その名で来るのがベンデル卿か」
マイゼルの右腕が跳ねた。
兵が押さえる。
だが腕だけが、別の生き物のように動いた。
肘が不自然な角度で持ち上がり、指が胸元へ伸びる。
「止めろ……!」
マイゼルが左手で右腕を掴む。
「動くな! もう動くな!」
右手は止まらない。
指が上着の内側へ食い込み、縫い目を裂いた。
兵が腕を押し潰そうとする。
マイゼルの右腕は兵の手を弾いた。
人の力ではない。
核から伸びた輪状の線が、手首まで強く浮き上がっている。
私は一歩出た。
「押さえないでください」
兵が止まる。
「腕を壊せば、命令だけが残ります」
マイゼルが私を見た。
「なら、どうすれば……!」
「腕は壊しません」
私は右手を開いた。
結界を壁にするのではなく、針に絞る。
細い光が数本、私の指先から伸びた。
光は皮膚の上で止まる。
肉にも骨にも入らない。
核から手首へ走る命令の流れだけを拾い上げる。
輪状の線が、皮膚の下で引きつった。
マイゼルの右手が胸元へ戻ろうとする。
袖を裂かれても、まだ命令は終わっていない。
指が上着の内側を探る。
縫い目に爪がかかる。
隠していたものを取り出そうとしていた。
私は結界の針を、核のくびれへ通した。
ラードムが叫ぶ。
「やめろ!」
遅い。
核から指先へ流れていた命令が、結界の針に絡め取られる。
腕から剥がされた命令は、黒い糸のように空中で縮れた。
「命令の流れだけを外します」
私は手を握った。
黒い糸が砕ける。
輪状の線が、一斉にほどけた。
マイゼルの右腕が床へ落ちる。
力を失った腕が、石の床に鈍い音を立てた。
同時に、上着の内側から硬い紙片が滑り出た。
床を擦って、王の前で止まる。
厚紙に似ている。
端だけが布で補強され、小さな留め穴が二つ開いていた。
表面には、短い文字が記されている。
ソレイユ側説明者。
応接前確認。
裏待機室へ。
案内係の手帳に重ねて留めるための差し込み紙だ。
手帳の本来の行き先は消さない。
上からこの紙片を足すだけで、説明者の通る順番だけが変わる。
表の応接へ出す前に、裏待機室へ回す。
王が差し込み紙を見下ろした。
「これで案内を変えたのか」
マイゼルが床に額を落とした。
「私が作った……。王宮側の案内手順に紛れ込ませる。ベンデル卿の一行が来た時、説明者だけを一度ここへ回すために……」
王はマイゼルから目を逸らさない。
「自分で作ったのだな」
「……はい」
マイゼルの声は消えかけた。
「最初の扉は、私が開けました」
王は短く言った。
「操られた後の罪は調べる」
マイゼルの肩が震える。
「だが、最初に通した罪は消えない」
マイゼルは頷けなかった。
否定もできなかった。
次の瞬間、ラードムが血を吐いた。
椅子から転げ落ち、床に膝を打つ。
口を押さえた指の隙間から、血が落ちた。
輪状の魔道具が床を転がり、壁際で止まる。
「戻るはずが……ない……」
私はラードムを見る。
「使い捨てるなら、つなげたままにしてはいけませんでしたね」
ラードムの肩が震える。
「あなたは、声を届かせるための道を残した」
ラードムの唇が動く。
声にならない。
「その道を、逆に使いました」
ラードムの身体から力が抜けた。
背中が床へ落ちる。
目は開いている。
だが、声だけが抜け落ちていた。
カイリアが後ずさる。
「……死んだのですか」
「生きています」
私は答えた。
「もう言葉で人を動かせません」
王が兵へ命じる。
「ラードムを拘束しろ。魔道具は別に封じろ。マイゼルも動かすな」
兵が動く。
その時、割れた核が最後に一度だけ脈を打った。
私は指先を下ろした。
結界の針が、割れた核の奥へ沈む。
外へ飛びかけた反応を押さえる。
だが、完全には間に合わない。
割れ目の奥から、一筋だけ反応が抜けた。
「壊れたことだけは、向こうへ届きました」
室内の空気が変わった。
その時、廊下の向こうから足音が走ってきた。
扉の外で兵が止まる。
「報告します!」
王が振り向く。
「何だ」
「ソレイユへ向かった使者が戻りました。途中で、こちらへ向かうソレイユ使節団を確認しました」
王の視線が動いた。
「ベンデル卿は」
「同行しています。夕刻には王宮へ到着する見込みです」
返答が早いのではない。
向こうは、呼ばれる前から動いていた。
ゼクスが王へ向く。
「呼び出しを受けてからの移動ではありません」
王が差し込み紙を見る。
「こちらが呼ぶ前から、来る準備をしていたか」
私はマイゼルの腕を見た。
割れた核の奥で、まだ細い脈が打っている。
外へ向けた知らせの脈だった。
「先読みだけではありません」
王が私を見る。
「何だ」
「漏れていました」
私は割れた核を指した。
「この部屋の動きです。袖の核は、王宮内で手続きが動いたことを外へ送っていました」
ゼクスが王へ言う。
「だから、ベンデル卿は呼ばれる前から動けた、ということです」
ラードムは動かない。
マイゼルも、もう腕を押さえる力さえ残っていない。
ベンデル卿はまだ王宮に着いていない。
それでも、裏へ回す手順はもう王宮内に置かれていた。
私は床に落ちた差し込み紙を見た。
裏待機室で言葉を染める。
王前で、それをソレイユの説明にする。
順番は見えた。
王が問う。
「間に合うか」
「来るなら、来てもらいます」
ゼクスが王へ視線を向ける。
「この部屋を残しますか」
「残すのは手順だけです」
私は割れた魔導核へ指先を向けた。
残っていた脈が、そこで止まる。
「相手は、こちらが裏待機室を見つけただけだと思っています」
王が言う。
「ならば」
「その勘違いごと使います」
私は顔を上げた。
「案内の手順は残します」
差し込み紙を見る。
「行き先だけ、変えます」
王がこちらを見る。
「ベンデル卿には、予定どおり王宮へ来てもらいます」
私は続けた。
「ただし、通す部屋はこちらが決めます」
読んでくださり、本当にありがとうございます!
皆さまからいただく感想や応援が、この作品を前へ進めるエネルギーになっています。
「面白そう」「続きが気になる」と少しでも思っていただけましたら、ぜひ 「ブクマ」や「評価」 をポチッとしていただけると、とても嬉しいです!
感想は一言でも大歓迎です、それだけで物語の未来が大きく変わります。
今後の執筆の大きな支えになりますので、どうぞよろしくお願いいたします。




