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第70話 言葉が届かない部屋

 裏の待機室の前で、兵が槍を構えていた。


 扉は閉まっている。

 鍵はかかっていない。


 中から、低い声が漏れていた。


「封印具は、王家の独占により歪んだ」


 カイリアの肩が強張る。


「聖会は、古い誓約に従い、管理を正す」


 マイゼルは顔を上げない。

 袖口を押さえる指だけが、強くなった。


「説明者は、まだ聖会の者と接触していない」


 王が短く言った。


「開けろ」


 兵が扉を押した。


 小さな部屋だった。


 小卓、壁向きの椅子二脚、水差し、薬箱に見せた箱。

 奥には、裏通路へ続く扉がある。


 椅子は、座らされた者に部屋を見せない向きだった。


 その一脚に、ラードムが座っていた。


 足を組み、輪状の小さな魔道具を指先で転がしている。

 小卓には、同じ文面の紙片が重ねられていた。


 王が入っても、兵が踏み込んでも、ラードムは足を解かない。


「おや。説明者の方々……では、ありませんね。少し早すぎますよ。まだ整っておりません」


 ここは王宮の中だ。

 王が立っている。


 それなのに、ラードムだけが、この部屋を自分の場所のように扱っていた。


 ゼクスが一歩前へ出る。


「お前がラードムか」


「はい。オルディア聖会、施療奉仕者ラードムです」


 ラードムは答えた。

 それでも立たない。


 王が問う。


「施療奉仕者が、なぜ裏の待機室にいる」


「説明者の体調確認です。王の御前へ出る前に、乱れがあってはなりませんので」


 声は穏やかだった。


 だが、壁に向いた椅子と、小卓の紙片が、その言葉を否定していた。


 私は薬箱に見せた箱を見た。


「開けてください」


 兵が箱を開ける。


 包帯も薬瓶もある。


 だが、封は切られていない。

 布に薬草の匂いもない。

 水差しも杯も使われていない。


「施療の準備ではありません」


 私は小卓へ目を移した。


「置いてあるだけです。準備されているのは、治療ではなく答えです」


 王が紙片を一枚取る。


 そこには、さきほど扉の外で聞いた文が並んでいた。


 封印具は王家の独占により歪んだ。

 聖会は古い誓約に従い、管理を正す。

 聖女セラフィナは封印具の異常を利用した。


 王の指が、紙の上で止まった。


「これは説明ではない。答えだ」


 ラードムは笑みを消さない。


「誤解を避けるため、言葉を整えていただけです」


「誰の言葉を」


「王の前に出る者の言葉です」


 ラードムは紙片を指で軽く叩いた。


「王の前で言えば、記録になります。ならば、言う前に整えるのが務めでしょう」


 王は紙片から目を上げた。


「記録に残る前に、答えを作ると言ったな」


 ラードムは、そこでようやく少しだけ背を起こした。


「人は、荒い命令には反発します」


 声が、ゆっくり室内に広がる。


「ですが、整った言葉には従う」


 その声に、細い魔力が混じった。


「一度なら違和感です。三度聞けば、本人の考えになる」


 聞いた言葉が、耳の奥で同じ形を保つ。

 考えるより先に、口が追いかけそうになる。


「正しい順番で聞けば、人は正しい答えを口にするものです」


 兵の槍先が、わずかに下がった。


 マイゼルの呼吸が、少し戻る。


 ラードムの指先で、輪状の魔道具がゆっくり回る。


「私は施療奉仕者です」


 もう一度、穏やかに言う。


「私は手続きに従って、この部屋へ通されました。どうか、落ち着いてご確認ください」


 兵の一人が、半歩だけ下がりかけた。


 私は指先を上げた。


「今、声に乗せましたね」


 ラードムが、初めて私を見る。


「面白いですね。見えるのですか」


「見えています」


「では、よくお分かりのはずです」


 ラードムの目が細くなる。


「封印具は、王家だけのものではありません」


 声が、今度は私へ向いた。


「あなたも、本当は分かっているはずです」


 言葉に絡んだ魔力が、こちらへ伸びる。


「聖会に戻す方が、人々のためです」


 私は動かない。


 声は届く。

 言葉も分かる。


 私は指先を横へ引いた。


 空気に薄い膜が張る。


 ラードムの声は通った。

 だが、声に絡んだ魔力だけが膜に引っかかる。


 細かな砂のように崩れ、床へ落ちた。


 残ったのは、ただの声だった。


 もう誰も頷かなかった。


 ラードムの笑みが消える。


「……何をした」


「声は届いています」


 私は答えた。


「ですが、乗せたものは通していません」


 ラードムの指が止まった。

 手の中の魔道具が、小さく鳴る。


 ゼクスはラードムの顔を見た。


「声だけか……」


「はい」


 ラードムが椅子の背から完全に身を起こした。


「そんな遮り方は……」


「結界は、拒むだけのものではありません」


 私は言った。


「通すものを選べます」


 ラードムの顔から、余裕が消えた。


 今まで、自分の言葉が届かない場などなかったのだろう。


 ラードムは、次にカイリアを見た。


「カイリア」


 カイリアの肩が跳ねる。


「あなたは封印具を守ろうとしただけです」


 カイリアの喉が動いた。


「王家の独占を正すために――」


 また、言葉に魔力が絡む。


 私はカイリアへ向かう声の途中に、同じ膜を挟んだ。


 声は届く。

 だが、魔力だけが床へ落ちる。


 カイリアが息を吸った。


「……違います」


 ラードムの目が変わる。


「私は、封印具を守るためだと……そう聞かされました」


 カイリアの声は震えていた。

 それでも、自分の声だった。


「魔物なんて、聞いていません」


 ラードムの表情が止まる。


「赤い石が外と繋がるなんて、知らなかったんです」


 王がラードムを見る。


「魔物を呼び込むことも、聖会の言う“管理を正す”に含まれるのか」


「……魔物?」


 その声から、作った調子が抜けた。


 私は、ラードムの指先を見た。

 魔道具は止まったままだ。


「少なくとも、魔物のことは聞かされていません」


 ゼクスが問う。


「知らされていないのか」


「魔物の件は。ですが、別のことは知っています」


 ラードムが私を睨んだ。


「違う。封印具を正すためです。司教猊下は、王家の独占を戻すだけだとおっしゃった」


 その名を口にした時だけ、ラードムの指が止まったまま動かなくなる。


 王の目が細くなった。


「そのために、カイリアへ金属片を渡したのか」


 ラードムは一瞬、口を閉じた。


 もう、声に魔力を乗せても通らない。

 同じ調子で場を整えることもできない。


「……合図用の金属片です。危険なものではありません」


 カイリアの顔色が変わった。


「違います」


 小さな声だった。

 だが、今度はラードムの言葉をなぞっていない。


「あなたは、守りの印だと言いました」


 ラードムは答えない。


「封印具を守るために必要だと。持っているだけで、聖会の守りが届くと」


 王がカイリアへ視線を移す。


「いつ受け取った」


 カイリアはラードムを見た。


 王宮へ向かう前です。外の施療所で……ラードムから受け取りました」


 ラードムの指先が止まる。


 王が再び問う。


「動かしたのは、カイリアだけか」


 ラードムは黙った。


 沈黙は、否定ではなかった。


 ゼクスが小卓の紙片を一枚取った。

 文面ではなく、紙の隅を見る。


 そこに、小さな管理印があった。


 ゼクスの目がそこで止まる。


「ソレイユ側の正式説明に使う印です」


 ラードムの指が動いた。


 王が低く言う。


「ソレイユの口で、聖会の答えを読ませる気か」


 ラードムは答えられなかった。


 椅子に座ったまま部屋を支配していた男が、初めて逃げ場を探す目になった。


 その視線が、マイゼルへ向く。


「マイゼル。手続きは、お前が――」


 マイゼルは顔を上げない。


 袖口を握る指だけが、強くなる。


「……ラードム、黙れ」


 声は震えていた。


 その一言で、ラードムの顔から最後の余裕が消えた。

 マイゼルは、視線を合わせない。


 私はマイゼルを見る。


「マイゼル」


 彼は答えない。


「先ほどから、そこを押さえていますね」


 マイゼルの指が止まる。


 私は小卓の紙片を王の前へ置いた。


「聖会だけでは、この部屋は用意できません」


 ラードムを見る。


「ラードムは、答えを用意した」


 次に、マイゼルを見る。


「けれど、この部屋へ通す順番を用意した者がいます」


 マイゼルは、袖口をさらに強く握った。


 布の内側で、細い輪の形をした魔力の痕が一度だけ滲む。


 王が言った。


「袖を見せろ」

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