第63話 通行札は戻り、工具は消えた
夜間連絡路側の詰所へ向かうよう命じられたのは、私とゼクス、老技官、それから数人の兵だった。
若い技官も同行している。
王は記録の部屋に残った。
門の封鎖、出入りの確認、管理印を扱える者の呼び出し。
動かすべきものが、まだいくつも残っている。
王は短く言った。
「詰所を調べろ。通行札を戻した者を出せ」
それだけだった。
私たちはすぐに部屋を出た。
夜間連絡路側の詰所は、宝物庫前の緊張とは違う静けさに包まれていた。
人の出入りは止められ、入口には兵が立っている。
中に入ると、正面の机には返却箱があった。
使い終えた通行札を、ここへ戻すための箱だ。
ゼクスが箱の前に立つ。
「通行札が戻されたのは事実です。ですが、戻した者がカイリア本人とは限りません」
老技官が頷き、箱の鍵を確認する。
「この箱を開けられるのは、夜間連絡路側の管理者だけです」
控えていた管理者が鍵を差し込む。
金具が小さく鳴り、返却箱の蓋が開いた。
私は箱の内側を覗いた。
木の隅に、わずかな粉が残っている。
指で払えば消えるほどの量だった。
だが、その粉の端が、かすかに青く変わっている。
私は直接触れず、紙片で粉を寄せた。
「……これ」
老技官が身を寄せる。
目を細め、粉の色を確かめた。
「通行札に付いた汚れではありませんな」
「では」
「金具を削った粉です」
詰所の中が静まった。
通行札を戻しただけなら、こんな粉は残らない。
戻した者は、金具か工具にも触れている。
ゼクスは返却箱の隅を見たまま言った。
「戻しただけではない。通行札を返した者の手には、別の作業の痕が残っていた」
老技官は返却箱の横へ目を移した。
そこには小さな作業台がある。
書類を書くための机ではない。
工具を広げ、一時的に金具や部品を確かめるための台だった。
若い技官の手が、その作業台の角で止まった。
見ているのは返却箱ではない。
台の端に残った浅い傷だった。
老技官が問う。
「見覚えがあるのか」
若い技官は少し遅れて答えた。
「カイリアが、ここで工具箱を開いていました」
「いつだ」
「三日前です」
老技官の手が止まった。
彼は作業台の傷に指を近づけ、直接触れないまま角度を変えて見た。
「この傷は、補修用の鑿では付きません」
若い技官は答えない。
唇を結び、作業台から目を離せずにいる。
三日前にカイリアが開いた工具箱が、ただの確認ではなかった。
そのことを、今になって理解しているのだろう。
「カイリアは、何をしていた」
「工具の確認だと……言っていました。外周と宝物庫前の石材を見比べるだけだと」
「誰がそう言った」
若い技官の喉が動いた。
「カイリア本人です」
老技官は短く息を吐いた。
「補修班の臨時技師が、夜間連絡路側の詰所で工具箱を開いた。しかも三日前か」
その日数は、宝物庫前から見つかった金具の汚れと合う。
ゼクスが兵へ視線を向けた。
「奥も確認してください」
兵が詰所の奥へ進む。
棚、道具箱、壁際の扉。
一つずつ確かめていく。
やがて、兵の一人が足を止めた。
「こちらの点検扉が、少しずれています」
老技官がすぐに向かった。
詰所の奥、棚の陰に小さな扉があった。
人が普通に出入りするための扉ではない。
壁裏を確かめるための点検扉だ。
扉は閉じている。
だが、枠と扉の端がわずかに合っていない。
一度開けて、急いで戻したように見えた。
老技官が金具を確認する。
「施錠は戻されています。ですが、噛み合わせが甘い」
ゼクスが問う。
「ここはどこへ続きますか」
「壁裏です。通行用ではありません。夜間連絡路の裏側を点検するための狭い道です」
外へ出る道ではない。
王宮の中を、壁の裏側から動くための場所だった。
兵が先に中を確認する。
扉が開くと、冷えた空気が流れ出た。
中は狭い。
人ひとりが横向きで進むのがやっとの幅しかない。
壁の内側には古い補修跡が続き、ところどころに細い金属の留め具が見えた。
入口から少し入ったところに、作業用の外套が落ちていた。
兵が拾い上げる。
外套の内側には、細い工具を固定するための布紐が残っていた。
しかし、肝心の工具はない。
外套には、壁裏の埃が薄く付いている。
長く放置されていたものではない。
袖の片方だけが裏返り、急いで脱いだように床へ落ちていた。
ゼクスが外套を見下ろす。
「通行札は戻した。だが、工具は戻していない」
私は外套の内側を見た。
布紐には、細い金属が擦れた跡が残っている。
「工具を持ったままなら、ただ隠れるためだけではありません」
老技官が壁裏へ視線を向けた。
「進みましょう」
兵が先に入る。
ゼクスが続き、私は老技官と若い技官の後ろから狭い通路へ入った。
壁裏は暗い。
手元の灯りがなければ、足元の段差も見えにくい。
だが、私には別のものが見えていた。
壁の補修跡に、青い反応が残っている。
昨夜、裂け目へ吸われていた反応と似ている。
ただし、宝物庫前で見たものほど強くはない。
私は立ち止まった。
「ここにも残っています」
老技官が振り返る。
「何が見える」
「昨夜、裂け目へ向かっていた反応と同じです。ただ、ここでは一点へ集まらず、壁に沿って奥へ流れています」
老技官は壁の補修跡を調べた。
古い結界の境目に沿って、浅い刻みが入っている。
彼の手が止まった。
「これは、壁の補修ではありませんな」
ゼクスが問う。
「何のためのものですか」
老技官は壁に灯りを近づけた。
「古い結界路に近い。地下の裂け目の反応を拾えば、封印具の支えに触れる位置まで寄せられます」
私は頷いた。
「宝物庫前の金具は、裂け目を右奥へ寄せるための目印でした」
私は壁の刻みを見た。
「ここは違います。反応を古い結界路へ寄せるために刻んだものです」
若い技官が息を呑む。
「宝物庫前だけでは、なかった……」
「はい」
私は壁の刻みを見たまま答えた。
「昨夜、裂け目へ流れていた反応は、ここにも残っています。カイリアは宝物庫前に金具を仕込んだだけではありません。夜間連絡路の裏側にも触れています」
老技官が壁を見たまま、声を硬くする。
「封印具へ響く道を、王宮の中から作っていたのか」
その時、さらに奥で青い光が一度だけ走った。
兵が一斉に身構える。
ゼクスが前へ出る。
「奥を確認してください」
兵が点検路の奥へ進み、小さな扉を開けた。
中は空だった。
人の姿はない。
だが、壁の裏に細い金具が残っていた。
宝物庫前から見つかったものとは違う。
幅も、刻みの深さも違う。
青い変色も薄い。
老技官が膝をついて確認する。
「これは裂け目を呼ぶ目印ではありません」
ゼクスが問う。
「では」
「反応の向きを変えるためのものです」
老技官は金具の端を示した。
「折られてはいません。曲げられている。刻みの向きだけが変わっています」
私はその金具を見た。
青い反応は、そこで向きを変えていた。
消えたのではない。
別の場所へ流されている。
「止めたのではありません」
私は言った。
「流れを変えています。ここで向きを変えて、別の場所へ逃がした」
ゼクスの目が細くなる。
「封じたあとも、動く場所が残っている」
答える前に、詰所側から兵の声が届いた。
「夜間連絡路の遮断具に反応!」
狭い点検路の中で、全員の動きが止まった。
続けて、硬い金属音が響く。
遠くない。
詰所の外、夜間連絡路を封じた扉の方角だ。
兵の声がさらに続く。
「扉は開いていません! 人も通っていません! ですが、遮断具の端が青く変わっています!」
老技官の手が壁から離れた。
「封じた場所に触れているのか」
私は壁の金具を見る。
そこに残った青い反応は、まだ消えていない。
奥へ流れたまま、別の場所で弱く揺れている。
「逃げ道を探しているだけではありません」
私は答えた。
「封じた場所そのものに、反応を流しています」
ゼクスがすぐに兵へ命じる。
「詰所へ戻ります。遮断具には触れないでください。周囲を固めるだけでいい」
兵が動く。
私はもう一度、落ちていた外套を見た。
通行札は戻されていた。
けれど、工具は戻っていない。
封じたはずの夜間連絡路は、内側から青く反応している。
仕掛けは、まだ終わっていない。
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