第4話 祝祭は壊れる――命令より先に落ちたもの②
◆灯りが残っているのに、平和が消えた
王都は本来、結界の内側で“均一な温度”に守られている。守られているはずだった。
息を吐くと、白くなる。
祝祭の熱気が背中から離れ、現実の寒さが前から押し返してくる。
空を見上げる。
星が――やけに近い。鮮明すぎる輪郭は、綺麗だからじゃない。
空と地を隔てていた“膜”が薄い。
透明なはずの境界が、光の筋みたいに歪んで揺らめく。
守りが弱まっている。
だが、王都の灯りはまだ残っている。
貴族街の光、浮遊装飾の淡い輝き、遠くの街灯の列。
完全な闇ではない。だからこそ恐ろしい。
「すぐ滅ぶ」ではなく、「じわじわ壊れる」。
壊れながら、まだ“いつもの顔”を保とうとしている。
灯りがところどころ瞬断し、戻りきらない。
空気の流れが途切れ、風だけが抜けていく。
街全体が、呼吸を浅くしていた。
私は肩越しに王宮の方角を見る。
建物の輪郭は残っている。
けれど、上にかぶさっていたはずの“安心”が、消えかけていた。
「膜が薄いなら、威光も同じだ――声だけでは、もう守れない。」
それだけで十分に嫌な確信だったのに、追い打ちが来た。
遠くで、獣の咆哮。
低く、長い。空気の底を擦るような音が、城壁の向こうから這ってくる。
王都の中で鳴る警告とは違う。装置の音でも、祈りでもない。
“生き物”の音だ。
一瞬で、街の動きが止まる。
誰もが同じ方向を見ようとするのに、首が固まる。
咆哮は一度で終わらない。
また響き――今度は、わずかに近い。
音が近づいたんじゃない。結界が薄くなったから、届くようになっただけだ。
膜が揺らめくたび、輪郭が鋭くなる。
守りの層が削れて、外の気配が流れ込む。
城壁の上、見張りの松明が一斉に揺れた。
風じゃない。空気そのものの震えだ。
遠景に、人の叫びが混じる。
城門の方で、誰かが叫んだ。
「外縁が……!」
言葉が夜に吸われるより早く、また咆哮。
身体が震える。
“もう始まってる”と、感覚が先に理解した。
壊れる速度は止まらない。
――この国の“正しさ”が、いま折れた。
私は息を吐く。
白い息が夜に溶ける。
低い警告音が、祈りの代わりみたいに夜を支配している。
ゼクスが外套の内側から、小さな円盤を取り出す。
掌に収まるほどの魔法鏡――遠見の道具だ。
彼は短く言った。
「確認しますか」
問い方に感情がない。“見ますか”じゃない。“確認”だ。
それだけで、頭の中の区切りが保たれる。
私は頷く。
鏡面が淡く光り、像が立ち上がる。
映ったのは、断罪の舞台ではない。
生活が止まっていく王都だった。
まず、水路。
魔導弁が沈黙し、噴き上げていた水の線が途切れる。
次の瞬間、逆流するように溢れ出し、石畳を濡らしていく。
次に、祝祭の浮遊装飾。
光の輪がふっと揺れて支えを失い、落ちた。
音が遅れて鏡越しに届く。
ガン、と鈍い衝撃。
誰かが逃げる。足を滑らせる。
浮遊していたものが落ちる――それだけで、街は一気に“危険な場所”へ変わる。
そして、貴族街。
光るドレスが、ただの布へ戻っていく。
さっきまで煌めいていた胸元の宝石が濁り、自己発光していた刺繍が死に、香りを噴いていた魔導具が沈黙し、残るのは、豪奢な布と、派手な化粧と、取り繕えない顔色だけ。
鏡の向こうで、笑っていたはずの人々が、今は青ざめている。
“数値”で勝ったはずの世界が、現象ひとつで黙り込んでいく。
街の音が、変わっていた。
奏楽はもうない。代わりに、警鐘が鳴っている。
ただ鳴っているのではない。
誰かが祈る代わりに、鐘が鳴り続けている。
ゴォォ……ゴォォ……。
音が、生活を押し潰す。
会話ができない。指示が通らない。秩序が作れない。
だから人は走るしかなくなる。
鏡の端で、王宮の塔の灯りが一段落ちた。
細い光が、すっと消える。
それだけで“まだ壊れる余地が残っている”と分かるのが恐ろしい。
私は、そこで口を開いた。
「結界炉は、力任せに流し込むほど――焼き切れますわ」
声は低く、短い。
誰かを嘲る音ではない。現象の説明でもない。
ただ、結果の言い方だ。
ゼクスはそれ以上、鏡を覗かせない。
彼の手首がほんの少し動き、鏡面が閉じる。
光が消える。像が途切れた途端、夜が戻ってきた。
冷気と、警鐘と、遠くの不穏だけが残る。
私は息を吐く。
勝利のためじゃない。確認のための息だ。
「……十分です」
見るべきものは見た。
これ以上見れば、心が“過去”に引っ張られる。
「私は前へ進む」
「逃げない。取り返しに行く」
馬車が待っていた。
王宮から少し離れた外庭、石畳の端。
護衛が周囲を固めているが、隊列は“威圧”ではなく。守るための並びだ。
逃走ではない。移送だ。
馬の鼻息が白い。
革具がきしみ、車輪の金具が夜気で冷えている。
世界が冷えていく感覚が、手に触れるものからも分かった。
ゼクスが扉を開ける。
「どうぞ」
私は頷き、踏み台に足を掛けた。
その瞬間――背後の王都を、一度だけ振り返る。
灯りは、まだある。
貴族街の光。遠くの街灯の列。祝祭の残骸みたいな淡い輝き。
完全な闇ではない。だからこそ、“まだ大丈夫だ”と錯覚できる。
しかし、支配しているのは灯りじゃない。崩壊の音だ。
最初は遠い。
高い金属音が、夜気を薄く撫でる。
キィ……。
一度、二度。
間隔が揃いすぎている。
そこに秩序があるからこそ、怖い。
さらに、別の場所から追いかけてきて――二重に重なる。
遠かった列が、近い列に変わる。
祈りの代わりに鳴り続ける音が、屋根の隙間へ入り込み、窓の隙間へ潜り、胸の奥まで押し込んでくる。
声が届かない。
御者が合図を出しても、馬が一瞬だけ足を止める。耳を伏せ、鼻息が荒くなる。
叫びも返事も、警鐘の低音に押し潰され、言葉の端だけが残る。
人の言葉より先に、“走れ”という動きだけが街を統べる。
灯りが残っているのに、平和は残っていない。
それがこの崩壊の恐ろしさだった。
私は、もう一度だけ息を吐く。
白い息が夜に溶ける。
そして、振り返るのを終える。
馬車に乗り込むと、内部は最低限の明かりだけだった。
贅沢な香りも、祝祭の熱もない。
あるのは、逃げ道としての静けさと、現実の冷たさ。
扉が閉まる直前、ゼクスが外から言った。
声は低く、短い。慰めの代わりに、手続きを告げる声。
「次は――婚約破棄と契約解除を“確定”させます。ここからは法の仕事です」
――“確定”。
その言葉が、妙に安心を連れてきた。
魔力でも、泣き落としでも、怒号でもない。
記録と署名で、言い逃れを潰す。
馬車の中で、紙の束が擦れる小さな音がした。
「ここからは法の仕事です」
その言葉が、私を落ち着かせた。
今は、それで十分だった。
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