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第7話 聖女は国家資産だ?――私はもう、王都へ戻らない

【結界崩壊まで 00:00】


 ゴ……と、低い音が王都の奥から響いた。


 窓の外で、王都の灯りが区画ごとに落ちていく。

 街灯も、魔導橋の補助光も、ひとつずつではない。

 背後の区画ごと、内側から力を失っていた。

 馬車が跳ねる。

 車輪が石畳を噛み、木枠が軋んだ。


 速度は上がっている。

 なのに、背後で崩れていく王都の方がこちらへ迫ってくるようだった。


 王都を覆っていた光がところどころで裂け、夜の冷気が通りへ流れ込んだ。


 崩れる音に、蹄の音がすかに重なる。


 追手が来ている。


 追いつかれても、もう「戻れ」では動かない。

 ここから先で問われるのは、誰がどこに署名し、何が記録として残っているかだ。


 ゼクスは外套の内から執務箱を取り出した。


 婚約破棄。

 解除条件。

 双子鍵。


 三つの書類だけが、すぐ取れる位置にある。


「相手の言葉に合わせて出します。説明は最小限に」


 外で蹄の音が近づく。


「今は、どの書類を出すかだけ確認してください」


 私は書類を見た。

 どれを出すかは、相手の言葉で決まる。


 馬車が大きく跳ねた。

 背後の蹄が、さっきより大きい。


「細かい経緯は後です。ここでは、相手に止められない証拠だけを出します」


 ゼクスは紙の端を押さえたまま続けた。


「シュバリエから必要な話は受けています。あなたが、連れ戻されない準備を先に整えていたことも」


「……ええ」


 私はもう一度、書類へ目を落とした。


 王都で揃えてきたものが、いま目の前にある。


 外で馬がいななき、車輪が石を噛んだ。


「……来ました」


 ゼクスが窓の外を見る。


 関所の灯りの中へ、王宮の外套を翻した兵たちがなだれ込んでくる。


「書類は私が出します。返答も引き受けます」


「いいえ」


 私はゼクスの手元から、婚約破棄の記録を抜き取った。


 ここで黙れば、私の意思はまた誰かの命令の下に置かれる。


 ゼクスは一度だけ私を見て、手を離した。


 馬車が関所の前で止まる。


 門が上がりきるより早く、背後から不揃いな蹄の音が押し寄せた。


 窓を開ける。


 夜の冷気とともに、怒号が飛び込んできた。


「戻せ! 尖塔の灯りが落ちた! このままでは貴族街まで――」


 王都の紋章入りの外套。


 だが、その外套には泥が跳ね、留め具も片方が外れていた。

 体裁を整える間もなく、命令だけを受けて追ってきたのだ。


 先頭の兵が私を見つける。

 青ざめていた顔に、怒りが浮かんだ。


「貴様、止まれ! その女は王国の聖女だ!」

「聖女は国家のものだ!」


 槍の石突が石畳を叩いた。


「国家資産を勝手に国外へ運び出すことは許されない!」

「女一人の意思など聞くな! 聖女は王国の設備だ!」


 国家資産。

 設備。


 どちらも、人に向ける言葉ではない。

 前なら、そのまま窓の奥へ顔を引いていた。


 だが、今は違う。


 指先に魔力を集める。


 誰かに命じられたからではない。

 私が、外へ出すと決めた魔力だ。

 窓枠に添えた指先から、抑えていた魔力をほんの少しだけ解放した。


 キィン――!


 窓枠の金具が鳴った。

 馬車の周囲へ魔力の圧が広がり、石畳の隙間に白い光が走る。

 追手の馬が一斉に前脚を跳ね上げた。


「うわっ!」


 兵が手綱へしがみつく。

 槍先が下がり、怒号が途切れた。


 馬は前へ出ない。

 兵たちも、槍を構え直せない。


 ほんの少し外へ出しただけだ。


 彼らが設備と呼んだものが、どれほどの力を抑えていたのか。


 ようやく理解した顔だった。


「セラフィナ様」


 ゼクスが私を呼ぶ。


「今ここで力を示せば、向こうに口実を与えます」


 私は指先から魔力を収めた。


 白い光が消え、馬車の周囲に広がっていた圧も抜ける。


 それでも馬は石畳を掻くだけで、一歩も前へ出なかった。


 私は追手を見る。


「必要なのは、私ではないのですね」


「……何を言っている」


「結界を動かす道具が欲しい。だから国家資産と呼び、設備と呼んだ」


 追手の顔が歪む。


「屁理屈を! 聖女なら国を守るべきだろう!」


 私は婚約破棄の記録を持ち上げた。


 王宮印。

 日付。

 アルベルト殿下の署名。


「この署名を見ても、同じことを言いますか」


 追手の目が署名欄で止まる。


 一瞬だけ、言葉に詰まった。


 だが、後ろにいる兵たちの視線に気づき、無理に声を張る。


「……そんなものは、後でどうとでもなる!」


 関所の空気が変わった。

 役人が追手から半歩離れる。


 門番の一人が記録板を持ち上げ、今の発言を書き始めた。

 追手の顔から血の気が引く。

 自分が何を言ったのか、遅れて気づいたのだ。


「あなたは今、殿下の署名を後から曲げられると言いました」


 私は書類を下ろさない。


「王家印のある記録を、関所の前で」


「違う! そういう意味では――」


 筆が紙を走る。


 追手は記録板を見て、言葉を止めた。


 怒鳴れば相手が下がる。

 命じれば道が開く。

 そのやり方が、ここでは自分の首を絞めている。


「だとしてもだ!」


 追手が声を荒らげる。


「結界が落ちたのは、貴様が裏で細工したからだろう!」


 私は婚約破棄の記録の下へ、二枚の書類を重ねた。


 聖女契約の解除条件。

 双子鍵の登録記録。

 指輪と刻印の対応。


「私が止めたのではありません」


 追手の目を見たまま告げる。


「殿下が婚約を破棄した瞬間、結界炉へ繋がる鍵が外れました」


 ミシッ――。


 王都の奥から、石が割れる音が届いた。

 追手が振り返る。

 夜空へ伸びていた中央尖塔の白い外壁に、縦の亀裂が走っていた。


「……尖塔が……」


 ゴォン……ッ!


 塔全体が大きく揺れる。


 上部が傾き、割れた石材が外壁を削りながら落ちた。

 白い粉塵が夜空へ噴き上がる。


 関所にいた者たちが、言葉を失った。

 私は書類を下ろさない。


「契約解除で止まったのは、回路の本線です」


 ゼクスが執務箱を開く。


 私は中から薄い銀板を抜き取った。


 三本の焼けた回路。

 開いたままの遮断紋。

 王宮側から流れ込んだ魔力の痕。


 確認した時刻も残っている。


「予備回路まで失った理由は、こちらです」


 銀板を追手へ向ける。


「王宮は結界を戻そうとして、安全装置を外しました」


「そんな記録など――」


「安全遮断の機能を解除できるのは、王宮地下の管理盤だけです」


 追手の言葉が止まった。


「殿下が鍵を外した。その後、王宮が残っていた回路まで焼いた」


 中央尖塔の上部が砕ける。


 白い石材と粉塵が、夜空へ崩れ落ちた。


 追手は書類を見る。

 次に銀板を見る。


 そのどちらにも、私が細工した痕はない。

 あるのは殿下の署名と、王宮側から行われた操作だけだ。


「それでも、私の罪にしますか」


 答えは返ってこなかった。


 私は銀板を執務箱へ戻した。


「十倍の聖女様がいらっしゃるのでしょう」


 追手へ視線を戻す。


「私を国家資産と呼ぶ前に、そちらへお命じください」


「貴様……ッ!」


 追手が馬を進めようとする。


 馬が甲高くいななき、前脚を踏み替えた。

 手綱を引かれても、馬車へ近づかない。


 槍を持つ兵の列が乱れる。

 背後には、崩れた尖塔。


 執務箱には、王宮側の操作を残した銀板がある。

 怒鳴っても、どちらも消せない。


 ゼクスが前へ出た。


「確認は済みました」


 追手が睨み返す。


「ここは王宮ではありません」


 ゼクスは動かない。


「セラフィナ様は、すでに我が国の特級招聘技術官として契約下にあります」


 王宮の外套を着た兵たちを順に見る。


「馬車に触れれば、我が国の招聘者に対する実力行使として扱います」


 追手の手が、手綱の上で止まった。


「まだ続けますか」


 返事はない。

 関所の兵も動かない。


 王宮の外套ではなく、記録板と追手の顔を見ている。


 ゼクスが御者へ合図した。


「通行します」


 車輪が回り始める。


「待て! 止まれ!」


 追手が怒鳴る。


 だが、馬車へ手を伸ばす者はいなかった。


 門の灯りが、窓の端から後ろへ流れていく。

 石畳を叩く車輪の音が変わった。


 関所を抜けた。

 追手の怒号が遠ざかる。


 その中で、一人の動きが変わった。

 追手が関所の詰所へ走る。

 扉を押し開き、壁際の魔導具へ手を伸ばす。



 次の瞬間――。


 光が一本、夜空を刺した。


 王室近衛騎士団の緊急招集信号だ。


 追手の一人が、勝ち誇るように顎を上げる。

 まだ終わっていない。

 そう言いたいのだ。


 ゼクスが窓の外を見る。


「あれを上げましたか」


 光は高く伸び、王都の外からも見える場所で止まった。

 関所の兵も、街道の御者も、遠くの見張り台も見ている。


 王宮が聖女を追って近衛を招集した。


 その事実を、自分から王都の外へ知らせたのだ。


 ゼクスが執務箱へ手を置く。


「もう、内輪の失敗には戻せません」

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『短編版』婚約破棄で聖女契約が切れました。――この国は“5分後に”崩壊が始まります。
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