第7話 返してほしい――私の人生を
【結界崩壊まで 00:00】
ゴ……と、低い音がもう一段沈んだ。
窓の外で、街灯が一つ消える。戻らない。
少し遅れて、その先の通りでもまた一つ落ちた。点ではなく、線で消えていく。
次の瞬間、通りの角に架けられていた魔導橋が片側から崩れた。
鈍い破砕音。石と金具が散り、下を走っていた荷車が急停止する。馬がいななき、人の叫びが遅れて重なった。
馬車が跳ねた。
車輪が石畳を噛み、木枠が軋む。速度は上がっている。なのに王都が遠ざかっていく感じがしない。
背後で止まる灯りと崩れる通りの列の方が、こちらへ追いついてくる。
キィィ……。
低い軋みが耳の奥に残る。
距離の問題ではない。王都を包んでいた魔力の膜そのものが、もう保てていない。
薄く張っていた光がところどころで裂け、その隙間から夜の冷気が街へ流れ込んでいる。
街灯だけじゃない。
通りを通りとして保っていた仕組みが、順に死んでいる。
道具として握られる恐怖は、もう断ち切った。
追いつかれても「戻れ」は通らない。
――ここから先は、書かれた事実が相手を縛る。
ゼクスは向かいで、外套の内から使い込まれた硬い執務箱を出す。
カチ、と留め具が鳴り、天板に整然と紙束が現れた。
魔法による契約書類。
封蝋の赤。鋭い折り目。署名欄の黒。
「これが、あなたを守る盾です」
それらは、下手な剣よりも鋭利な武器に見えた。
ゼクスの声が、揺れる車内に現実を繋ぎ止める。
盾。剣じゃない。攻めるためではなく、二度と搾取の檻へ連れ戻されないための防壁。
――私にとって、人生で初めての「私のための道具」だった。
馬車が跳ね、紙がずれかける。
ゼクスは迷いのない手つきでそれを押さえ、位置を直した。
「これからは、あなたが“無償で削られる契約”は結びません」
言い切って、ゼクスは条文の一箇所を指で叩く。
「対価と責任を――ここに刻む」
「ここは声の大きさで押し切る場所ではありません。紙に刻まれた“事実”が勝ちます」
「……ええ」
大広間を支配していたのは王子の傲慢な声だったが、今、この狭い馬車内を支配しているのは強固な条文だ。
その支配は、少なくとも私を“機能”へと貶めることはない。
ゴォォ……。
また、重い崩壊音が風に混じった。
蹄の音だけじゃない。空気が震えている。追いつこうとする気配だ。
「追手が来ます。――だから今ここで、整えます」
ゼクスは紙束を「並べた」。左から右へ。上から下へ。
戦場で地図を広げるみたいに、静かに盤面を作る。
「三点です」
一つ。王宮印、日付、立会人の署名欄。
「宣言記録:婚約破棄。王宮記録。立会人署名付き」
次に。角の丸い条文。
ゼクスは指先で見せるだけで済ませた。
「鍵:婚約」「命令権:配偶者」「解除条件:破棄」
最後に。薄いが、図が先にある。
「双子鍵の登録。儀式記録」
刻印と指輪の登録構造――“通す/拒む”が気分じゃなく手順で決まる証拠。
馬車が大きく跳ねた。
蹄の音が、はっきりと背後に迫っている。
ゼクスは紙の端を指先で押さえたまま、顔を上げた。
「今は時間がありません。細部は後で――落ち着いたら、お聞きいたします」
彼は一瞬だけ視線を外へ投げ、戻す。
「我が国の外交官シュバリエから、話は聞いています」
「これらは、あなたが自分を殺しながらも揃えたものです。あなたは、連れ戻させない形を作った」
「……ええ」
外交官シュバリエと、密かに幾度もやり取りの日々を思い出す。
最初は結界の簡単な問い合わせだった。
取るに足らない顔をして、少しずつ確かめた。
聖女の扱い。契約の形。登録の条件。解除の効き方。
そして殿下の慢心が頂点に達する日を待って、逃げ道ではなく、戻れない形を整えた。
私は、王都と一緒に潰えるつもりはない。
彼らが私の魔力を『当たり前』として浪費していた間に、私はその『当たり前』を契約の外へ出す準備を整えていた。
「……来ました」
ゼクスが窓の外を見やり、短く告げる。
関所の灯りが見えてきた。そこには、王宮の外套を翻す兵士たちの姿。
「追手が来たら、これを出します。あなたは喋らなくていい」
「いいえ」
私はゼクスの言葉を遮り、彼の手から書類を一枚、自らの指で抜き取った。
彼に守られるだけでは足りない。
私が、私自身の意思で、彼らの傲慢に終止符を打たなければ。
「私が、話します。……その方が、彼らの絶望が深くなります」
ゼクスの口角が、一瞬だけ、称賛を込めて上がった気がした。
馬車が止まる。
関所の門が上がりきるより早く、背後から不揃いで乾いた蹄の音が割り込んだ。
窓を開けると、夜の冷気と共に、絶望に満ちた怒号が飛び込んでくる。
「止めろ! その女は王国の聖女だ!
聖女は国家のものだ。国家資産だ、連れ戻せ!」
王都の紋章入りの外套。槍の石突が地面を叩く威圧の音。
顔は青褪めているというのに、口だけは勇ましい。それは、未だに自分たちが持つ“肩書”の万能性を信じ切っている者の喋り方だった。
これまでの私なら、この石突の音ひとつで肩を震わせ、彼らの「正論」に縮こまっていただろう。
だが、今の私は違う。
隣でゼクスが差し出そうとした書類を、自らの指先で静かに制した。
夜風に髪をなびかせ、その瞳に宿る冷徹な光で、男を真っ向から射抜いた。
「『資産』、ですか。……随分と物騒な呼び方ですね」
男が一瞬、言葉を詰まらせる。
私は手元の一枚を、関所の灯りの下へ、扇でも広げるような優雅な所作で提示した。
「争点にするのは、この『婚約破棄の記録』でしょうか? それとも――」
もう一枚、術式図の描かれた紙を重ねる。
「アルベルト殿下が自ら署名した、『結界炉の解除条件』の証明書?」
追手の男が焦燥を露わに身を乗り出した。
「書類だの儀式だのはどうでもいい! 結界が落ちて国が、王宮が崩壊しかけているんだ!
貴様には王国に従う義務があるだろう!」
私は薄く微笑んだ。
「“王国に従う”とおっしゃいましたが。……契約は既に切れております。
この署名は同意ではなく、殿下ご自身の『責任』です」
「……っ、殿下が、そんな判断をするはずが……!」
男は言いかけて、飲み込んだ。殿下を否定すれば、自分の手で王国の権威を折ることになる。
「だとしても! 結界が落ちたのは、お前が裏で細工をして止めたからだろう! 国を滅ぼす気か!」
ゼクスは何も言わない。ここで言葉を足せば、論点が増えるだけだと分かっているからだ。
私は追手を一度だけ見た。
言い返すためではない。次に告げる“事実”の重さを刻みつけるために。
「私は、止めてなどいません」
声は小さい。だが、その分だけ残酷に響いた。
「ただ、『鍵』が外れただけです」
「嘘をつけ! 鍵を外したのはお前だろう!」
「いいえ。この結界は、殿下との愛の誓いによってのみ維持されるよう、殿下ご自身が書き換えを命じられたものです。
殿下が私への愛を捨て、婚約を破棄された瞬間に、結界への魔力供給は途切れました。
私には、それを止める権限も、繋ぎ止める義務もありません」
その時、遠く王都の方角で、ひときわ大きい地響きが轟いた。
中央尖塔が、魔力の支えを失って崩れ始める。
「あら。あの尖塔も、殿下の愛が足りなかったせいで、崩れてしまったようですね」
「貴様……ッ!」
男の唇が震える。
だが、何も言えない。
仕組みを否定すれば書類を否定することになる。書類を否定すれば、王子の署名を――王権そのものを否定することになるからだ。
そこで、ゼクスが前へ出た。
「書類はそろっております」
声は静かだった。
それなのに、その一言で場の空気が変わる。
「聖女契約の解除確認。婚約破棄の記録。
そして、セラフィナ殿とバルハイム王国との新規契約」
ゼクスは淡々と告げる。
「すべて、いまこの場で有効です。セラフィナ殿は、すでに我が国の契約下にあります」
誰かが息を呑んだ。
ゼクスは相手から目を逸らさない。
「ここでなお手を出されるなら、婚約破棄の直後に、契約を失った聖女を他国が保護した。
その事実に対し、王家側が不当な拘束を試みたと記録されます」
短く区切る。
余計な言葉はない。
「まだ、追われますか。それとも、署名済みの書面を前に、王家ご自身の判断を否定されますか」
男の喉が鳴る。
もう追えない。
一歩でも前へ出れば、自分で作った仕組みと、自分たちが振りかざしてきた権威の両方に潰される。
それが分かってしまったからだ。
ゼクスは私の横へ戻ると、静かに御者台へ合図を送った。
「通行します。――止める権利は、もはや誰にもありません。
王宮が自ら、その手を放したのですから」
車輪が再び回り始める。
呆然と立ち尽くす追手たちを置き去りにして、馬車は夜の闇へ滑り出した。
関所を抜けた瞬間、私は背もたれに深く身を預けた。
車輪の音が一段と軽くなる。
ゼクスは書類を重ね、封蝋を指先で押さえた。
「成果はすべて記録しました。この勝利は、あなたのものです」
窓の外では、闇の中へ王都の残火が沈んでいく。
ゼクスはその揺れる灯りを一度だけ見て、静かに問いかけた。
「……後悔は?」
「ええ、あります」
即答だった。
ゼクスがわずかに目を見開く。
私は窓を閉めた。外の崩れかけた王宮の火光が、ガラス越しに揺れている。
その揺れを一度だけ瞳に入れてから、冷たく言い放った。
「あんな無能な殿下と不敬な貴族たちのために、私の貴重な数年間の時間を捧げてしまったこと。これだけは、どれほど書類を整えても取り返せません」
私は、ほんの少しだけ牙を剥くような、自分でも驚くほど冷たく美しい微笑を浮かべて言葉を落とした。
「返してほしいなら――」
……ああ、そうだ。この渇いた心地よさこそ、私が求めていたものだ。私は、わずかに口角を上げて紡いだ。
「まずは、私の人生を返してください」
ゼクスは返事をしなかった。ただ深く、敬意を込めて頭を下げた。
その時。
――背後で、光が一本、夜空を刺した。
王室近衛騎士団が使う、緊急招集の魔導信号だ。
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