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第8話 追手が増えても、手遅れです

 関所の方角で、さっきの光に続くように新たな信号が上がった。


 一つではない。

 二つ、三つ。


 光が上がるたび、関所の灯りが乱れる。

 少し遅れて、蹄の音が増えた。


 まだ届かない。

 だが、関所から馬を出したことは分かる。


「……ゼクス様」


「ええ、見えています。野蛮ですね」


 ゼクスは懐中時計を開き、針をひと目だけ確かめた。

 焦りはない。


「ですが、遅いです。信号を上げた時点で、もう王都の関与は消せません」


 懐中時計の蓋を閉じる。


「越えたのは、外周の関所一つだけです。今の信号を受けて、この先の街道にも新たな検問が置かれるでしょう」


「ええ。崩れた王都より、私を止める方が先なのですね」


 結界は落ち、王都の崩壊が始まっている。

 それでも王宮は、街道を塞ぐ人員を向かわせる。


 ゼクスは視線を後方から前へ移し、そのまま御者へ告げた。


「灯りを消せ。速度はそのまま」


 御者から短い返答があった。


「後ろは追ってきます」


「追わせろ。前へ抜けろ」


 次の瞬間、馬車の灯りが消えた。


 御者の鞭が乾いた音を立てる。

 馬が首を振り、蹄が石を強く叩いた。


 馬車は速度を落とさない。


 灯りを消したのは、隠れるためだけではない。

 こちらが止まらなければ、追う側はさらに命令を重ねるしかない。


 信号。

 追跡。

 先回り。


 動けば動くほど、王都が私を連れ戻そうとしている事実は濃くなる。


 外から護衛の声が届いた。


「後続、二手に分かれます」


 ゼクスの指が、封蝋の上で止まる。


「片方は追跡。もう片方は先回りですね」


 ゼクスは関所で使った書類を下へ送り、別の移送状を一番上へ出した。


「先回りまで動いた以上、もう現場の独断では済みません」


「王都が崩れているのに、救援ではなく私の奪還へ兵を回した」


「ええ。国境までに、王宮の命令として確定させます」


 後方の灯りの一つが、街道から外れていく。


「なら、塞がせましょう」


 私は遠ざかる灯りを見た。


「民を救うより、私を結界へ戻す方を選んだと、自分たちで残させます」


 後方の灯りのうち一つが、街道から少し外れていく。


 ただ追っているのではない。

 止める場所まで探している。


 追跡ではない。

 連れ戻しだ。


 王都は、婚約破棄も契約失効もなかったように、私に結界を戻せと言うつもりなのだろう。


 あの国が欲しいのは私ではない。

 まだ使える聖女という名の道具だ。


 なら、はっきりさせる。

 私は、もう王都の道具ではない。


 向かいで、ゼクスが短く問う。


「……後悔は?」


「ええ、あります」


 即答だった。


 私は窓の外を見た。

 崩れかけた王都の火が、ガラス越しに揺れている。


 その揺れを一度だけ見てから、言った。


「あんな無能な殿下と、不敬な貴族たちのために、私の数年間を捧げてしまったことです」


 膝の上で重ねていた指に、力が入った。


「返してほしいなら――まずは、私の人生を返してください」


 ゼクスは何も言わず、深く頭を下げた。


 私はゆっくりと指の力を抜いた。



 ガタ、と大きく揺れ、車輪の音が変わる。

 窓の隙間から夜気が流れ込んできた。


 外で護衛の動きが変わる。

 前後の間が詰まり、蹄の刻みが揃った。


 短い笛が一度だけ鳴り、すぐ闇へ消える。


 前方に灯りがひとつ現れ、すぐ消えた。


 街道の灯ではない。

 民家の窓でもない。


 消える直前、青白い光が見えた。


 王宮近衛の合図灯だ。


 外から見れば、一瞬の灯りにしか見えない。

 だが、結界の運用に関わってきた者なら、灯りの端に走る青白い光を見逃さない。


「先回りですね」


 護衛が告げるより、私の声の方が少し早かった。


 馬車の外で、護衛も同じ報告を上げる。


「前方にも灯り。街道脇です」


 ゼクスの指が、膝の上の書類を一枚だけ押さえた。


「王宮近衛ですか」


「ええ。道を照らすための灯りではありません」


 私は前方の闇を見た。


「あれは、こちらの進路を知らせる合図です」


「近衛まで動かしたのですね」


「ええ。これで、王宮の命令だと否定できなくなりました」


 ゼクスは驚かない。

 膝の上の書類のうち、いちばん上の一枚をすでに入れ替えている。

 封蝋の色が、先ほどとは違っていた。

 灯りを消せ。速度はそのまま。

 先ほどの関所で見せた書類ではない。


「近衛が出ましたか」


 ゼクスの指が、書類の端を押さえる。


「これで、現場の暴走では済みません」


 兵が焦った。

 現場が勝手に動いた。

 混乱の中で判断を誤った。


 王都は、あとでそう言うつもりだったのだろう。


 だが、近衛の合図灯は違う。

 王宮近衛が進路を示し、前を塞ぐ。


 それはもう、ただの追跡ではない。

 王都が、私を戻すために隊を動かしている。


「前で止めて、後ろから追い上げるつもりですね」


 外の護衛が、馬車の左右へ寄った。


 背後には追手。

 前方には先回り。


 王都は包囲の形を作った。

 同時に、言い逃れできない形も作った。


 王都が崩れたところで、終わりではない。

 ここから先は、その責任を私へ戻すために、彼らがどこまで自国の規則を捨てるかだ。


 馬車は止まらない。


 関所は越えた。

 それでも王都の追手は止まらない。


 なら、来ればいい。

 追うほどに、王都の関与は濃くなる。


 私は前を向いた。


「進んでください、ゼクス様。夜が明ける前に、あの国が届かない場所へ」


 膝の上で指を重ねる。

 少し遅れて、指先に魔力が集まった。


 王都はまだ分かっていない。


 私を追えば、追跡の記録が残る。

 進路を止めれば、命令を出した者の名が問われる。

 私に触れれば、連れ戻す意思まで否定できなくなる。


 それでも、行く手を阻むなら。


 私は前方の青白い灯りを見据えた。


「正式な移送だと知ったうえで退かないなら、魔力で道を開けます。さっきは、ほんの少し外へ出しただけです」


 ゼクスはすぐには答えない。

 書類の端を押さえていた指が、ゆっくりと離れる。


 前方の闇で、青白い灯りがもう一度瞬いた。


 塞ぐ場所を、向こうが自分で示した。


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『短編版』婚約破棄で聖女契約が切れました。――この国は“5分後に”崩壊が始まります。
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