第40話 奪取と口封じ――同夜、二手
深夜。詰所の灯りは、最低限のまま保たれていた。
廊下の奥で、靴底が一度だけ石床を擦った。
次に、短い報告が扉の外へ届く。
「侵入者」
扉の前に立っていたゼクスが、すぐに動いた。
彼は扉を半分だけ開け、廊下の兵へ視線を向ける。外へ出る前に、私へ振り返った。
「ここにいてください」
声は静かだった。命令ではない。だが、扉の前から動かないという意思ははっきりしていた。
私は寝台の端に手をついたまま、廊下へ意識を向けた。
足音が増えている。
走ってはいない。
けれど、人の位置が変わっている。
保管庫へ向かう廊下と、治療区画へ続く廊下。
その二方向だけ、魔力の揺れが細く乱れていた。
「……両方です」
私が言うと、ゼクスの目がわずかに動いた。
「保管庫と、治療区画」
その言葉が終わるより早く、廊下の向こうでアルネの命令が飛んだ。
「灯りはそのまま。大声を出すな」
続けて、短く指示が重なる。
「出口を押さえろ。保管庫側へ捕縛班を回せ。治療区画は厚くしろ」
「外周にも人を残せ。逃げ道を作るな」
「走るな。音を出すな」
「挟め。逃がすな」
兵たちが動く。
声は増えない。
足音だけが、廊下の角ごとに短く止まり、また動いた。
ゼクスは扉の外へ出た。
だが、私の前から完全には離れない。扉と廊下の間に立ち、こちらへ戻れる位置を保っている。
「セラフィナ様」
「行かせてください」
私は寝台から立ち上がった。
休むための部屋に戻る気にはなれなかった。
赤い石が消えれば、現場の痕と腰袋がつながらなくなる。
クレールが死ねば、石を渡した者の名も途切れる。
片方だけでも失えば、相手は逃げる。
私は扉へ向かった。
ゼクスが一歩だけ前に出る。
「危険です」
「赤い石とクレールを同時に失えば、取り返せません」
それ以上、彼は止めなかった。
私が廊下へ出ると、空気が冷えていた。
灯りは増えていない。
壁際の魔導灯だけが、薄く床を照らしている。
保管庫側で、小さな金属音がした。
赤い石を納めた保管庫の扉には、保全のための封が残っている。
その外枠へ、薄い工具が差し込まれていた。
鍵穴ではない。
封の端を剥がそうとしている。
封の端が、わずかに浮く。
私は息を止めた。
扉が開いたわけではない。
赤い石に触れられたわけでもない。
封を剥がされれば、開けていなくても痕が乱れる。
誰がいつ触れたかを、あとから追えなくなる。
侵入者の指が、もう一度工具を押し込む。
封の端がさらに浮いた。
紙の繊維が、かすかに裂ける。
私は指先を上げた。
工具の先が、封の端で止まる。
男の手首が押し返され、金具が床に落ちた。
それでも、男はすぐには逃げなかった。
落ちた工具へ指を伸ばす。
拾い直して、封の端へもう一度差し込もうとする。
その前に、背後からバルハイム兵が入った。
男は左へ逃げようとした。
だが、その足も止まる。
私は廊下の角に、腰の高さまで結界を作った。
飛び越えられない高さではない。
だが、足をかければ音が出る。
男の動きが乱れた。
その隙に、保管庫側の兵が左右から寄る。
誰も叫ばない。
手だけが動いた。
腕を押さえ、膝を落とさせる。
口元を布で押さえ、床へ伏せさせる。
保管庫の扉は開いていない。
だが、封の端は浮いていた。
アルネがそれを見て、すぐに言った。
「封には触るな。触れた箇所を先に記録しろ」
近くにいた記録官が保管庫側へ回る。
その時、治療区画の奥で硬い音がした。
薬瓶が倒れた音だった。
治療区画では、クレールが目を開けていた。
顔色は悪い。
唇は乾き、声を出そうとしても喉が鳴るだけだった。
肩の布には血が滲み、呼吸のたびに胸が浅く上下している。
それでも、クレールは寝台の布を掴んでいた。
眠っていたのではない。
近づいてくる足音に気づいて、目を開けていた。
寝台の脇に、人影が立つ。
クレールを見る目が、傷の具合を確かめるものではなかった。
顔にも、肩にも、包帯にも目を向けない。
その視線は、最初から喉元へ向いていた。
クレールは身体を引こうとした。
だが、傷が痛んだのか、肩がわずかに震えただけで止まる。
布を掴む指だけが強くなり、身体はほとんど動かなかった。
侵入者の袖口から、細い刃が出た。
短く、薄い。
袖の内側に隠して運ぶための刃だった。
男はクレールの口元を片手で押さえようとし、もう片方の手を喉へ向ける。
クレールの目が大きく開いた。
声は出ない。
代わりに、枕元の薬皿へ震える手を伸ばす。
指先が皿の縁に触れた。
力は弱い。
それでも、クレールは薬皿を男の腕へ押し出した。
薬瓶が倒れ、床へ落ちる。
乾いた音が治療区画に響いた。
その音が、廊下まで届いた。
私は角を曲がった。
治療区画の奥で、侵入者の腕がクレールへ伸びているのが見えた。
薬皿は床に転がっている。
クレールは寝台を掴み、喉を守るように顎を引いていた。
侵入者の刃が、首筋へ近づく。
私は指先を上げた。
「離れてください」
男は振り向かない。
クレールの口元を押さえる手が、顔へ届きかける。
もう片方の刃は、喉元へ向けられていた。
私は術式を絞った。
刃とクレールの喉の間に、薄い結界を作る。
金属が見えない壁に当たり、短く鳴った。
侵入者の手が弾かれる。
だが、男は退かない。
手首を返し、別の角度から刃を入れようとする。
クレールが息を詰まらせ、身体を横へずらそうとした。
寝台の布が引きつれ、肩の布がずれる。
刃が、喉元の包帯をかすめた。
布の端に、細い裂け目が入る。
私は一歩踏み込み、今度は腕そのものを封じた。
肩。
肘。
手首。
三か所を同時に止める。
侵入者の右腕が空中で固まった。
男は無理に引き抜こうとした。
肘が震え、手首が不自然な角度で止まる。
「刃を離してください。抵抗すれば、腕を痛めます」
侵入者は答えない。
足で寝台を押し、身体ごとクレールへ寄ろうとする。
クレールは布を掴んだまま、必死に身を引いた。
呼吸が乱れ、咳が込み上げる。
それでも、目だけは侵入者から逸らさなかった。
私は指先をわずかに曲げた。
結界が、侵入者の手首をさらに押さえ込む。
侵入者の指から力が抜ける。
刃が床へ落ちた。
硬い音が、治療区画に響いた。
その音を合図に、控えていたバルハイム兵が踏み込む。
一人が侵入者の肩を押さえる。
もう一人が膝の裏を払う。
侵入者は寝台へ倒れかけたが、兵が身体の向きを変え、床へ伏せさせた。
クレールの寝台には触れさせない。
拘束具が手首に掛かる。
侵入者はなおも足を動かそうとした。
だが、すぐに別の兵が足首を押さえた。
そこでようやく、男の動きが止まった。
クレールはまだ寝台を掴んでいた。
指は白くなっている。
目は、床へ伏せられた侵入者の顔を追っていた。
私は短く確認した。
「知っている相手ですか」
クレールは答えようとした。
声は出ない。
代わりに、咳が出た。
看護兵がすぐに肩の布を押さえ、身体を支える。
クレールは苦しそうに息を吸い、それでも侵入者を見たまま、かすかに首を横に振った。
知らない。
その反応で、寝台の周りにいた兵たちの視線が侵入者へ集まった。
少なくとも、クレールがその場で名を出せる相手ではない。
追跡隊の誰かが、怒りに任せて飛び込んだのではない。
クレールを知らない者が、クレールを殺しに来ていた。
治療区画の入口でも、記録官が筆を取った。
アルネが短く言う。
「首を横に振った。そう書け。声は出ていない」
クレールは目を閉じた。
だが、布を掴む手は離れなかった。
保管庫側から、拘束完了の合図が届く。
治療区画側でも、兵たちは侵入者を押さえ込んでいた。
肩を押さえる者。
足を押さえる者。
床に落ちた刃を布で包む者。
侵入者の手首に拘束具が掛けられる。
そこで、アルネが治療区画側で捕らえた男の外套を調べさせた。
内側から、薄く折られた紙が出てくる。
血も泥もついていない。
使い込まれた紙でもない。
今夜のために用意されたものだ。
アルネが広げる。
詰所全体の地図ではなかった。
正確な見取り図でもない。
だが、保管庫へ続く廊下と、治療区画の入口だけが書かれていた。
保護室の前は、空白のまま避けられている。
ゼクスは紙へ目を落とした。
何も言わない。
代わりに、アルネが紙の下段を読んだ。
「赤い石を奪い返す」
「石の秘密を知るクレールを消す」
「セラフィナ本人には触れるな」
「扉の前の男を動かすな」
寝台の周りにいた兵たちが、紙へ目を向けた。
狙いは、はっきりしていた。
私を殺すためではない。
証拠と証人を同時に消すために来ている。
アルネは紙を記録官へ渡した。
「押収物として扱え。誰の外套から出たか、先に書け」
記録官が頷く。
アルネは拘束された男を見る。
「受け取った場所。渡した相手。順に言え」
侵入者は答えない。
「黙るなら、それでいい。紙と一緒に残す」
その一言で、侵入者の肩がわずかに動いた。
保管庫側の兵が、他の侵入者からも紙片を回収した。
内容は短い。
赤い石。
治療区画。
クレール。
必要な言葉だけが並んでいる。
アルネはそれを見て、顔を上げた。
「同じ内容だ。別々に押収しろ」
ゼクスは紙に目を落としたが、口を挟まなかった。
記録官は二枚を別々に扱い、押収した順を紙へ書き込んだ。
私は治療区画の寝台へ目を戻す。
クレールはまだ震えていた。
布を掴む指が、しばらく戻らない。
アルネが次の命令を出す。
「保管庫の鍵を替えろ。赤い石は別室へ移す。運ぶ者は二人、立ち会いは記録官」
「クレールの周りを空けるな。看護兵と護衛を分けろ」
「捕らえた者は別々に置け。顔を合わせさせるな」
兵たちがすぐに動く。
保管庫の前には別の兵が立ち、治療区画の入口にも新しい護衛が増える。
侵入者が通った廊下は、一時的に閉じられた。
私は、クレールの喉元を見た。
包帯の端に入った細い裂け目が、まだ残っている。
刃は、そこまで来ていた。
ゼクスが隣に来た。
「部屋へ戻りましょう」
今度は反論しなかった。
廊下を戻る途中、足音が揃っていた。
さきほどまでと同じ詰所ではない。
赤い石を入れた箱が、記録官の前で閉じられる。
クレールの寝台の前には、別の兵が立つ。
捕らえた侵入者たちは、互いの顔が見えない別々の部屋へ運ばれていった。
扉の前に戻ると、ゼクスが先に室内を確かめた。
寝台。
長椅子。
水差し。
窓。
変わっていないことを確かめてから、彼は私を中へ入れた。
扉が閉まる。
廊下の音は遠くなった。
だが、完全には消えない。
記録官の声。
紙をめくる音。
拘束具を運ぶ金具の音。
私は寝台へ戻らず、扉の方を見た。
廊下の向こうで、アルネの声が響く。
「命令書を別室へ回せ。押収した順を崩すな」
赤い石は奪われなかった。
クレールも殺されなかった。
だが、命令書の中で、実際に狙われていたものははっきりしていた。
赤い石。
クレール。
今夜、相手が消しに来たのは、その二つだった。
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