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第39話 影となれ――赤い石奪取の命令書

 国境と王都の中間地点に、ソレイユ軍が仮設した連絡詰め所がある。


 夜番の兵が外へ顔を向けた直後、一頭の軍馬が広場へ倒れ込んだ。

 泡を吹き、前脚を折るようにして地面へ崩れる。


 馬から転がり落ちた男が、土に手をついて立ち上がった。


 追跡隊長ベッセンだった。


 肩当てには血が飛び、外套には泥がこびりついている。

 倒れた馬を確かめず、詰め所の扉へ向かった。

 負傷者の有無も告げない。


 彼は詰め所の扉へ向かった。


「通信だ! 早く用意しろ!」


 駆け寄った役人が足を止める。


「隊長、現場の状況は」


「国境付近で魔物の群れが発生した。追跡隊は壊滅的な被害を受けている」


 ベッセンは役人の肩を押しのけ、通信器の前へ出た。


「ベンデル卿へ直報する。魔導通信器を貸せ」


「負傷者の搬送は――」


「後だ」


 役人が広場へ目を向ける。

 倒れた軍馬の横で、夜番の兵が手綱を掴もうとしていた。


 ベッセンは通信器から手を離さない。


「詳細は卿にのみ話す。早く繋げ」


 役人は口を閉じ、通信器の魔石へ手を伸ばした。

 ベッセンは横から指を突き出し、感度を強引に調整する。


 通信器からノイズ混じりの音が走り、王都への回線が繋がった。


 ソレイユ王都。

 ベンデル卿の執務室。


 机上の魔導記録板には、徴発量や国境連絡の到達数が並んでいた。

 夜の室内で、緊急通信の光だけが点滅している。


 ベンデルは椅子に座ったまま、通信器へ視線を向けた。


「ベッセンか」


「卿、現場が崩壊しました」


 ベッセンの声は乱れている。

 だが、言葉だけは整えようとしていた。


「魔物の襲撃で現場は混乱しています。私はこの事実をいち早くお伝えするため、あえて現場を離れました」


「現場を離れた」


 ベンデルは、その一語だけを返した。


 通信の向こうで、ベッセンの息が止まる。


「……直報のためです。あの状況では、聖女セラフィナもろとも赤い石がバルハイム側の手に渡ったと見るべきです。あれが証拠化されれば、我々の立場が危うい」


 ベンデルはすぐに答えなかった。

 記録板の端を指で押さえ、通信の雑音が収まるのを待つ。


「誰が、貴公の退避を見た」


「……は」


「現場を去る時、貴公は何と言った。聞いた兵はいるか」


 ベッセンが黙る。


「クレールは生きているか」


「卿、今は赤い石を――」


「答えろ」


 ベンデルは声を荒げなかった。

 通信器の雑音だけが、室内に細く残る。


「……重傷ですが、生きている可能性があります」


「証言できる状態か」


「分かりません」


「分からない、か」


 ベンデルは机の上の紙を一枚ずらした。

 そこには、国境追跡隊の編成名簿がある。


「貴公の名は、こちらで扱う。残し方もこちらで決める」


 ベッセンの喉が鳴った。


「卿、私は――」


「責任者として名を残したいなら、このまま喋れ。残りたくないなら、こちらの指示を待て」


 通信の向こうで、何かが机に当たる音がした。

 ベッセンが拳を握ったのか、通信器へ手をついたのかは分からない。


「赤い石は、バルハイム側にあると見るべきです」


 それだけを、ベッセンは絞り出した。


「クレールも、そちらに」


「分かった」


 それを最後に、通信は断たれた。


 執務室に静けさが戻る。


 ベンデルは通信器から手を離し、魔導記録板へ視線を移した。


 国境連絡の数字が歪み、黒い霧を滲ませる。

 霧は記録板の上で紋章のような形を作った。


 王宮の正式な通信ではない。

 魔族との交信だ。


 紋章の奥から、複数の声が重なって漏れる。


『赤い石が、バルハイムの手に落ちた』


『石から辿られる』

『触れた者がいる』

『証言する者が残れば、道が開く』


 ベンデルは記録板を見たまま答えた。


「赤い石は回収する。クレールも残さない」


『遅れれば、お前の名まで届く』


「承知している」


 ベンデルは鏡へ目を向けた。


 そこには、実年齢より若い男が映っている。

 だが、目尻に薄い皺が戻り始めていた。


 ベンデルは指先でそこに触れる。


 皺は消えない。


 記録板の黒い紋章が、さらに濃くなる。


『証拠を消せ』

『口を塞げ』

『次の更新を望むなら、失うな』


 ベンデルの指が、鏡の前で止まった。


「更新は止めさせん」


『結界の崩壊は始まっている』

『王子が数字を信じた結果、崩壊は早まった』

『混乱は広がる。今なら影を紛れ込ませられる』


 ベンデルは鏡から目を離した。


「王子の失態も、結界の崩壊も使える」


 彼は記録板へ指を戻した。


「混乱が広がっている間に、物証を消す。言い訳は後で作る」


 交信が途切れ、記録板には元の数字が戻った。

 鏡の中では、目元の皺だけが残っている。


 ベンデルは机の引き出しを開けた。

 あらかじめ用意されていた書面を一枚取り出す。


 そこには、バルハイム国境詰所周辺の見取り図と、短い指示が記されていた。

 細部まで正確な地図ではない。

 だが、侵入する者が向かうべき場所は分かる。


 ベンデルは目的の欄に目を通した。


 一つ、赤い石を奪い返す。

 二つ、クレールを消す。


 セラフィナ本人には触れるな。

 保護室の正面は避けろ。

 扉の前にいる男とは争うな。


 ペン先が紙の上で止まる。


 彼は下段へ、さらに短い指示を書き足した。


 灯りを増やすな。

 声を出すな。

 影となれ。


 最後に、ベンデルは自分の名を記した。

 署名の横に、黒い封印印を押す。


 封印は一度だけ沈み、紙へ馴染んだ。


 ベンデルが呼び鈴を鳴らすと、扉の外で足音が止まった。

 扉は開かない。

 下部の細い差し込み口だけが内側へ開く。


 ベンデルは命令書を差し込んだ。

 向こう側の手が、それを抜き取る。


 返事はない。


 次の瞬間、廊下の足音が二方向へ離れた。

 一つは階段へ。

 もう一つは、裏口へ向かう通路へ消える。


 ベンデルは鏡の前を離れず、命令書を抜き取らせた扉の方を見た。


「赤い石を戻せ。クレールは残すな」


 誰に聞かせるでもなく、そう言った。


 同じ夜。


 バルハイム国境詰所では、まだ記録官の出入りが続いていた。

 赤い石は保全され、クレールは治療区画にいる。


 保護室の扉の前には、ゼクスが立っていた。


 影はそこを避けた。


 一つは、赤い石が保全された場所へ。

 もう一つは、クレールのいる治療区画へ向かっていた。

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『短編版』婚約破棄で聖女契約が切れました。――この国は“5分後に”崩壊が始まります。
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