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第38話 任務ではない

 通された部屋は、「賓客」とは程遠い簡素な空間だった。

 寝台と硬い長椅子、水差し、使い古された清潔な布。

 小さな窓の外を行き交う魔導灯の光が、壁の影を短く伸ばしては戻す。

 効率と規律だけで作られたような、無機質な箱だ。


 私は寝台の端へ腰を下ろした。シーツは柔らかい。

 だが背は預けない。浅い呼吸のまま、耳だけが扉の向こうを追っていた。


 廊下の足音が時折止まる。

 等間隔の間を置いてまた動き、交代のたびに同じ位置で一度だけ止まる。

 ――見張りが回っている。

 守られているはずなのに、それが今も事態が進んでいる証だった。


 そこへ扉が開いた。入ってきたのはゼクスだ。疲れは見えない。

 彼は入る直前に廊下の左右を一度だけ確かめ、扉を閉めた。


 ガチリ、と鍵が掛かる音。ゼクスは扉枠へ指を添え、角と継ぎ目を順に押した。違和感がないと確かめてから、ようやく室内へ向き直る。



 それから彼は扉越しに、廊下の兵へ向かって低い声を落とした。


「交代は二時間ごと。記録官の出入りは通す」

「それ以外は、たとえ味方であってもすべて止めろ。用件は私を通せ」


 その声は、一兵卒から将官までを平伏させるような冷徹な響きを持っていた。

 ゼクスが室内へと向き直る。瞳が、ようやく私を捉えた。

 声のトーンがわずかに落ち、決定事項を告げる穏やかさが混じる。


「今日はここで休みましょう。心配しなくていい」

「ここはもうバルハイム領内です」


 ゼクスは私の泥のついた指先を一瞬だけ見つめ、すぐに視線を外した。


「外の手続きはすべて、私が動かします。あなたが今夜、もう一度あの現場へ出る必要はありません」


 静かな断定だった。

 私は、彼が「休みましょう」と言いながらも手袋を外していないことに気づく。

 外では今も、私の証言と検分の結果が書面に整えられ、ソレイユ王国へ突きつける準備が進んでいる。


 安らぎはない。ただ、この冷たい石壁の部屋だけが、今の私に許された唯一の聖域だった。


 促されるまま、ゆっくりと寝台へ体を横たえた。

 シーツの清潔な冷たさが肌に触れる。だが、瞼は開いたままだ。身体を支配しているのは、心地よい眠気ではなく、神経が張りつめたままの冴えだった。頭の中で、さきほど詰所で交わされた検分班の報告が、言葉のまま繰り返されている。


「……明日、ソレイユ王国は何を言い出すでしょうか」


 天井の不規則な影を見つめたまま、告げる。


「あの赤い石は……やはりベンデル卿が絡んでいます」

「直接手を下さず、クレールのような末端を使ってまで……」

「何のために、あれを私に持たせようとしたのか」


「目的は、二つに絞れます」


 ゼクスが短く、断定するように答えた。彼は部屋の隅に立ち、影に半分溶け込みながらも、その視線だけは私の不安を正確に射抜いている。

 推測を並べて不安を煽るような真似はしない。

 ただ、冷徹な筋道だけを私に示す。


「一つは、物理的にあなたを止めること。バルハイムへの亡命を最悪の形で阻止する」

「……そしてもう一つは、我が国の領内で制御不能な魔物の群れを起こし、外交的な混乱と失態を作り出すこと」

「一石二鳥というわけです」


 一拍。ゼクスの目が、さらに冷たくなった。


「ベンデルは、あの石が特定の魔力に反応して暴走することを、あらかじめ知っていた可能性が高い」


 私は身を固くする。本国で自分を無能と嘲笑っていた者たちが、自分を消すためにこれほどまで周到に動いていた。その事実に震える私へ、ゼクスは畳みかけるように続けた。


「相手が何を言ってくるか、それを封じるために『言わせません』などという甘い言葉は使いません」

「……言うなら、先にこちらが言わせる。それも、取り返しのつかない形で」


 ゼクスは言葉を区切り、廊下を見張る兵に聞こえぬほどの低い声で言った。


「記録官の前で、あなたの証言を完全に固定します。奴らが後からどんな虚飾を塗り固めようとも、事実に上書きできない『順番』をこちらが取ります」

「あなたは、ただ真実を話すだけでいい」


 そう語りながら、ゼクスは静かに動いた。

 卓上の水差しを寝台の横へ寄せ、私の手が届く位置か指先で確かめる。

 清潔な布も一枚、丁寧に畳んで同じ側へ揃えた。


 世話を焼きたいのではない。いざという時に私が迷わず動けるよう、手の届く範囲だけを整えている。バルハイム流の気遣いは無駄がなく、徹底していた。


 私は、自分に触れることなく周囲を整えていく彼の指先を追い、小さく息を吸い込む。

 こわばっていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。


「……ありがとうございます。ですが、こうして『守られる側』でいいと言われても……」

「どうしても、慣れなくて」


 独りで立ち、独りで耐えることが当たり前だった日々。

 声が少しだけ柔らかくなり、隠しきれない戸惑いが、冷たい石壁の部屋に静かに溶けていった。


 ゼクスは視線を外さず、私を見据えたまま言った。

 言葉を重ねて安心させるのではなく、ただ自らの立ち位置を明確にすることで、迷いを断ち切らせる。


「今夜だけでいい。慣れる必要はありません、今は委ねてください」


 その声には、拒絶を許さないほどの静かな強さがあった。


「あなたはもう、やるべきことは終えている。ここから先は私が引き受けます。責任も私が負う」


 ゼクスは長椅子が用意されているにもかかわらず、そこへ背を預けようとはしなかった。

 扉のすぐ側、部屋の内側に立ったまま、意識の半分を廊下の物音へと向け続ける。


 私はそれを見て、礼の言葉を喉の奥で止めた。

 彼はただ言葉で「守る」と言っているのではない。

 その背中が、物理的に外敵との境界線になっている。

 部屋の中にいながら、彼は今も戦場に立っているのだ。


「ゼクス様は……休まないのですか」


 問いかけに、ゼクスは扉から目を離さず、淡々と答える。


「眠ります。あなたが眠ってから」


 それだけ言って話を切り上げようとはせず、ゼクスは一歩、寝台の方へと歩み寄った。

 私が圧迫感を覚えない、だが私の震えにすぐ手が届く絶妙な距離。そこで足を止める。


「今夜は、私がここにいます」


 視線がゆっくりと私へ戻る。

 瞳は、さきほどまでの冷たさを少しだけ引かせ、ひとりの男として私を見ていた。


「任務だからここにいるわけではありません。……あなたを、一人にしないためにいます」


 言い切ったあと、彼は確かめるように私の表情を覗き込んだ。


「怖いなら、怖いと言ってください。私は聞きます。あなたが心安らぐまで、ここで待ちます」


 その瞬間、扉の外で足音が止まった。交代を告げる低い声と、武具の金具が触れ合う硬質な音が小さく響く。

 次の足音が一定の間隔で遠ざかっていくのを、二人は沈黙の中で聞いていた。


 私は天井を見つめたまま、乾いた唇を開きかけては閉じた。

 慣れない優しさに、いつもの礼儀正しい言葉すら形にならない。

 代わりに、深く、深く息を整えてから絞り出す。


「……分かりました。少しだけ、目を閉じます」


 ゼクスは満足げに、短く頷いた。


「はい。何かあれば、すぐに」


 私がゆっくりと瞼を閉じる直前、ゼクスの気配がふわりと近くなった。

 反射的に指先がこわばる。彼の端正な手が伸びてくるのが見えた。


 けれど、その手が私の肌に触れることはなかった。

 ゼクスはただ、寝台の端に掛かっていた布がずり落ちないよう、指先で丁寧に整えて戻しただけだった。


 その動きがあまりに慎重で、私は気づいてしまった。

 それは任務としての気遣いではない。

 私に向ける意識の重さが、言葉より先に伝わってきた。


(ああ、温かい……)


 不思議と呼吸が深く入る。

 瞼の裏に焼きついたのは、扉の前に立つ彼の揺るぎない背中だ。


 今夜だけではない。これからもずっと、この背中がそこにあるのではないか。

 そんな考えが唐突に浮かび、慌ててそれを否定しようとした。

 けれど、否定しきれない微かな期待が、胸の奥で心地よい重みとなって私を眠りへと誘っていく。


 二人の間にあった信頼が、いつの間にか別のものに変わり始めていた。

読んでくださり、本当にありがとうございます!

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