第22話 空っぽの器
夜の王宮は静かだった。
遠くで見回りの鐘が、かすかに鳴っていた。
それなのに、この扉の前だけは、笑い声と杯の音がはっきり聞こえた。
廊下の灯りは落としてある。
壁の魔法灯は最小で、足元だけが薄く見える。
その薄明かりの端に、香水の匂いが残っていた。
扉の前に護衛が一人。
立っているだけで、そこから先へ進ませない。
止める言葉はない。
だが、通す気もない。
私は通らない。
用はない。
ただ、通り道として近いから、横を抜けるだけだ。
扉の向こうで笑い声がした。
明るく、よく響く笑い声だった。
笑って、息を吸い、すぐ次の言葉を続ける。
杯を合わせる軽い音が続いた。
「だって、見れば分かりますわ」
リュミナの声だった。
「私が“正しい側”にいればいいのです」
言い切る声。
迷いがない。
続いて、アルベルトの声が重なった。
「数字があれば、異論は表に出ない」
短い。
命令でも願いでもない。
計算しかない言い方だった。
また杯の音がした。
扉の隙間から香水の匂いが強くなる。
「見せてしまえば、皆、納得しますもの」
リュミナが笑う。
「数字は嘘をつきませんもの」
「それで十分だ」
アルベルトが即答する。
「必要なのは結果だ。手順は後で揃えればいい」
後で、という言葉が軽い。
揃える、という言葉も軽い。
何を揃えるのかは、口にされない。
誰が揃えるのかも、誰も言わない。
廊下の端で紙が擦れた。
振り向くと、計測技士官のダンテが立っていた。
灯りの少ない場所でも、白い手袋だけははっきり見える。
彼は記録簿を閉じ、封を押さえたまま止まっている。
ダンテは扉を見ない。
見ないまま、私の方だけを一度、確かめる。
声は出さない。
合図もしない。
ただ、足を一歩引いて、通路を空けた。
私も何も言わない。
足音を抑えて、その前を抜ける。
背後で、リュミナが楽しそうに言った。
「壇上で見せれば、皆、信じますわ」
笑い声が続く。
扉の外には護衛がいる。
扉の内側には、香水と笑いがある。
廊下には、見回りの鐘の音だけがかすかに残った。
ダンテの足音が、少し遅れて私の後ろを通り過ぎる。
背後で、記録簿の留め具が小さく鳴った。
硬い金具の音だった。
その音だけが、やけにはっきり残った。
訓練は続いた。
同じ結末が、何度も繰り返された。
刻印板を替えても、結界片を替えても、変わらない。
光は生まれる。
綺麗に光る。
白く鋭い。
目が痛むほど眩しく、輪郭だけは整っている。
熱が空気を押し上げ、床の刻印が一瞬だけ浮く。
息が詰まるほどの圧が来る。
――けれど、繋がらない。
刻線の入口で、いったん光る。
リュミナの目が、一瞬だけ明るくなる。
いけた。
そう思ったのだろう。
次の瞬間、光は途切れた。
ぱち、と散る。
細い線が途中でほどけ、光が落ちる。
リュミナの眉が、初めてはっきり寄った。
彼女は測定器を見る。
針は跳ねている。
跳ねているのに、板の向こうへ繋がらない。
眩しさだけが残って、受け口には届かない。
「……変ね」
声が荒くなる。
「こんなに出ているのに。ほら、数値は――」
彼女は測定器の縁を指で叩く。
針が震え、震えだけが目立つ。
“出ている”ことは示せる。
“繋がった”ことは示せない。
私は刻印板を見たまま言う。
視線を上げない。
慰めない。
失敗だとも言わない。
「数値は出ています」
言い切って、止める。
リュミナは言い返そうとして、口を開き、すぐ詰まる。
説明の言葉が見つからない。
彼女の手元にあるのは、数値だけだからだ。
なら、押し切る。
そう決めたように、彼女は息を吸い直す。
出力をさらに上げる。
光は増える。
眩しさが増す。
周囲の影が濃くなる。
しかし、結果は同じだった。
入口は光る。
だが、線が続かない。
繋がらない。
最初から、その先へ繋ぐための手順がない。
そのことが、少しずつはっきりしていく。
リュミナの力は、針だけを押し上げる。
結界片が受け取るのは、出力の強さではない。
流れの形だ。
噛み合わない。
だから、受け口で弾かれる。
「……どうしてよ」
声が荒くなる。
「私が足りないって言うの!? そんなはずない。八倍もあるのよ!」
その瞬間、私はようやく彼女を見る。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、彼女が欲しがっている答えだけを返す。
「大丈夫です。綺麗に光っています」
壇上で見られるのは、今みたいな途中ではない。
リュミナの動きが止まる。
私は続けた。
「数値が出るか。光がはっきり見えるか。拍手が起きるか。そこだけが評価されます」
理解したからではない。
安心したからだ。
彼女が欲しいのは仕組みではない。
許可だ。
「……そう、よね?」
声が少し弱くなる。
「だって、みんな数値を見るもの」
私は頷く。
“みんな”を否定しない。
否定すれば、彼女は理由を聞く。
理由を聞けば、測定器ではなく刻印板を見てしまう。
私は刻印板を片づけながら、もう一つだけ言う。
褒めでも指示でもない。
彼女が握りしめたい言葉だけを渡す。
「数値は、嘘をつきません」
その数値を何の証明に使うのか。
そこまでは言わない。
リュミナはその言葉を握りしめる。
自分に都合のいい部分だけを。
「なら……王子様の前でも、同じにできるわね」
壇上の光が、彼女の目に先に映る。
歓声が、もう耳の中で鳴っている。
私は黙って肯定する。
彼女はもう、壇上のことだけを考えていた。
派手であること。
数値が高いこと。
それだけで足りる、と信じる心。
――繋がらないまま、出来上がっていく。
空っぽの器の完成だ。
光は出る。
綺麗に光っている。
針も跳ねる。
けれど結界へは繋がらない。
回路へは流れない。
そのズレは、いつか必ず表に出る。
壇上で、誰も誤魔化せない形で。
祝祭で起きることは、偶然じゃない。
ここで、もう組み上がっていた。
リュミナは目を上げる。
まだ来てもいない壇上を見て、笑った。
「ねえ……当日は、もっと綺麗に光るわよね?」
私は刻印板を片づけ終える。
黒くなった縁を布で覆い、測定器だけを彼女の前に残した。
リュミナは、その針を見ていた。
私は答える。
「ええ。見える場所なら、もっと綺麗にできます」
リュミナは満足そうに頷いた。
彼女は、結界の方を一度も見なかった。




